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若かりし頃のふたりを思い描きながら

昨日わたしは、新潟県三条市にいた。

わたしが18年住んだ燕市のとなりの市だ。(「燕三条」という名前や有名だが実はふたつは別の市なのだ。)どちらも刃物やカトラリーで有名なまち。

35℃ちかくあるカンカン照りのなか、1時間に一本しかない電車に乗り、東三条駅に降り立った。地元にいたときは車移動が多かったので、東三条駅に降りて街を歩く、というのはこれが初めてかもしれない。

そこに降り立ったのは近くで用事があったのが一番の目的なのだけど、実は東三条駅前は、父方の祖父と祖母が出逢った場所なのだ。そんな場所を見てみたかった。

祖父は国鉄職員で、東三条駅は弥彦線の終点の駅だから、終電終わりには東三条駅の近くの宿に泊まっていたのだという。

そして、祖母はその宿の3軒となりの酒屋の娘で、駅前を通りかかる祖父がかっこよかったので、声をかけたのだそう。今で言う逆ナンだ。

確かに祖父は、よぼよぼになった今も鼻が高く、昔の写真を見るとまさに「ハンサム」という言葉が似合う整った顔立ち。

よくもまぁ声をかけたもんだと思うけれど、今でもテレビの字幕を全部読んじゃうほどのおしゃべりでガツガツした様子から、確かに想像がつく。

祖母が声をかけていなかったら、今自分はここにいなかったかもしれないと思うと、とても感慨深い。

祖父が泊まっていた宿(写真上)も、祖母の実家の酒屋も、どちらも商売はもうやっていないようだけど、建物と屋号はまだ残ったままだった。

燕にいた頃三条にはよく来ていたけれど、この歳になって街を歩く楽しさを知ってから来るのはまったく見え方が違う。

さらに、祖父と祖母が出逢った場所で、ふたりが過ごした建物が残っている街ともなるとさらにその深みは増す。

刃物屋や米屋、肉屋など、まだ商売を続けている店もある。マンションで消えゆく町並みも多い中で、祖父と祖母が出逢った頃の建物がまだ残っていうちに来れてよかったと心から思ったし、

そんな町並みが残っていてほしいと思う。

祖父はもう認知症も酷くなり、さっき言ったことを何度も聞き返すし、大好きだったわたしの名前を呼ぶことすら危うくなってきた。祖母も腰を痛めてから、体はすっかり半分折りのまま。

小さい頃は、空襲のことや7人兄弟の弟をおぶって家の手伝いをしていた話とか、昔の話を何度も何度も聞かされてしつこいなぁと思っていたけれど、もうすぐそんな話を聞けなくなるかもしれないと思うと、

また昔の話を、今度は聞いたこともない話も引きだしてやろう、と思える。

まだ古い建物が残る町並みに、若かりし頃の祖父母の姿を思い描きながら、三条の街を歩いた。

#週1note (vol.3) 全メンバーのnote|hiromi_okb|note(ノート)https://note.mu/hiromi_okb/m/m05e60c2489c0

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