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小説『水蜜桃の涙』

「第4章 伊ケ谷邸の息子」

この章の登場人物:
成沢清之助・・・高等師範学校の最終学年に通う都会育ちの青年
谷口 倖造・・・・高等師範学校の教授
伊ケ谷 治平・・・村の名主
中本・・・・・・・村長
伊ケ谷 宗一郎・・・伊ケ谷氏の長男で隣町の学校に在籍する中学生

伊ケ谷邸に戻ると案の定、先ほどの女中が待っていたようだ。

「あ、書生さん。ずいぶん歩かれたんですか?皆様つい先ほど起きられて、書生さんが帰られるのを待っておられますよ。お膳をお持ちしますからね、座敷でお待ちください」

しまった!またやってしまったか。
目上の方たちを待たせるとはなんという不覚!
行って、まずは謝ろう。

慌てて向かった座敷では、すでに教授たちが談笑していた。
僕に気づいた伊ケ谷氏が
「やあ、帰ってこられたようですな。どうぞ遠慮なくお座りください」
と声をかけてくれた。と同時に谷口教授も怒るではなしに、
「成沢君、どうやら酒はあまり強くないようだね。これからは少しずつ酒席の方も勉強せねばな」
と皮肉めいた“ありがたい忠告”をくださり、笑っておられる。

「皆さん、どうも今回の失態を大変申し訳ありませんっ!それから朝餉の席にも遅れてお待たせしてしまい、何も弁解の余地はありません」
と僕はとにかく平謝りに謝る。言い訳など無用であるのだから。

「ささ、書生さん。お膳をお持ちしました。おかわりもご用意しております」
と言いながら、女中が僕の膳を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。いただきます」

箸を持つと同時に、昨晩は見なかった若者の存在に気付いた。

「成沢君、これは私の息子で宗一郎と言います。通常は客と食事の席を同じにはしないのだが、今後かかわりもできるでありましょうから、今回は特別に紹介しておきたくて同席させました」
すかさず伊ケ谷氏が僕に紹介してくれる。

「宗一郎です」
と言葉少なに挨拶こそしてくれたが、僕を見つめるその目にはなぜなのかわからないが、敵意みたいな雰囲気を感じてしまった。見た感じ、十六、七歳ほどであろうか。

「はじめまして。僕は現在高等師範学校に在籍しています、成沢清之助と申します」
「いやあ、息子は今隣町の中学校の寮住まいですが、今回は週末に客が来るからと帰ってこさせたんですわ」
伊ケ谷氏が説明すると、
「坊ちゃんは昔から成績優秀ですからな。高等学校の試験も楽に合格できるでしょうな。本当に先が楽しみですよ」
と中本村長が持ち上げた。

まことにそうなのかもしれないが、村長の昨晩の話し方と言い、わかりやすい世辞が他人へ向けたものなのに僕としてはなんとも気持ちが悪い。
やはりここは資金を出してくれる人間に対しての追従ついしょうなのだろうか。
ひとりそんなつまらないことを考えながら飯を口に運んでいると、やはり子息の視線を感じたので、愛想笑いを浮かべると、にべもなく目をそらされてしまった。

何だろうか?どういう理由があって僕のことをあのように視るのだろう。

まあ、物思う思春期である。僕にもつい最近まで同じような時期を過ごしていた覚えがあるではないか。
見ず知らずの客にへらへらと愛想よくできるものではないと、今だから理解できる。
ちょっとばかりの反抗心と言うものであろう。
勉学に明け暮れているであろう毎日から少しだが解放される週末の休日に、親に勝手に呼び戻されたのだ。
そりゃあ面白くもないだろう。
ましてや昨晩は当方が早々と寝入ってしまったから、せっかく帰ってきても何の話もできないではないかと怒るのも当然である。
そう考えると急に大変申し訳なくなってきて、飯のおかわりをしたい気持ちが萎えてしまった。

「宗一郎君、昨夜は大変すまなかったね。すぐに眠ってしまい、恥ずかしい限りだ」
とにかく、ここはきちんと謝罪しておいた方がよかろう。
しかし彼からは何の返事ももらえることもなく、やや気まずい間があって、谷口教授が口を開いた。

「まあ、仕方ないさ。酒があんなにも弱いとは私も知らなかったからね。しかし今後はいろいろとこの村とも伊ケ谷さんともお近づきになるから、話す機会もお互い増えていくことだろう。宗一郎君も先輩の話を聞けば、今後の試験の参考にもなるだろうし、成沢君も年の近い宗一郎君からこの村のことを詳しく聞いた方が何かと都合いいだろう。ま、そういうことだ。宗一郎君も成沢君もよろしく頼むよ」

それでもついに彼は僕といっさい目を合わせることなく飯を「ごちそうさまでした」とさっさと食べ終わって、自分の部屋かどこかへ行ってしまった。
「こらっ!宗一郎!お客様に失礼ではないかっ!」
伊ケ谷氏が叱った声が、ただその場に空しく残っただけだった。

それよりもだ!
ついついご子息のご機嫌伺いにばかり気をとられていたが、教師の話はとっくに既成事実のような流れになっているではないか!
もうここで言っておく必要があるな。そんな気持ちはないと…。

いや、ちょっと待てよ。
ここで一切を断ってしまうと、あの少女に会える機会も全くなくなってしまうということだ。少しばかりは関りができる可能性を残しておいた方が賢明なのかもしれないな。
どうしよう…。

僕が迷っている間に、伊ケ谷氏が話し始めた。
「先生も成沢君もすまないことです。息子もなかなか難しい年頃で。
最近は本当にいつも機嫌が悪くて困っとるんですわ。寮も離れているから、顔をしょっちゅう合わせなくてすむし気分も紛れるだろうと思っていたんですがね。結局はさらに息子の気持ちがよくわからなくなってしまって…」

「そりゃあ、仕方ありませんわ。私たちもあの年頃は何かとむしゃくしゃすることが多かったもんですよ。息子さんが若い証拠です。そのうち親のありがたみがわかって、お父上の手伝いを引き受けてくれるようになりますよ。お父上も今ちょっとばかり刺激的なことを抱えておられるから…ふふ。
それは仕方のない問題ですよ。息子さんの反抗なんて…ね」

村長がその場しのぎのわかったようなことを言っているが、何か妙なことも言っている。
なんだか歯に物が挟まったようなはっきりしないこと…?

伊ケ谷氏の顔も困ったような、あるいはがっかりしたような憮然とした表情をしているし、村長は言い終えたそのままの少しばかり口元がほころんだ顔で最後の茶を飲んでいて、谷口教授はというとどうにも冴えない顔をしておられる。

三者三様の表情を見まわしながら、どうやら昨晩僕が眠り込んでしまった後に、この家の、伊ケ谷氏のことでも話題に出たのであろうと事情が呑み込めた。
しかしいったいどういう話だったのか。
ますますもって、眠り込んだ失態を犯した自分に呆れるし、明らかに後悔していることだけは言える。

食事が済み、一晩世話になってしまったお詫びとお礼を言い伊ケ谷邸を離れた。
もちろんだが、伊ケ谷邸を出る際もご子息は出てきてはくれなかった。

そのまま谷口教授のご実家へと足を向けた。
昨日村へ帰ってきてからすぐに伊ケ谷邸へ向かったおかげで、まだご健在のお母上にも満足に挨拶も積もる話も出来なかったのである。教授も気持ちがはやっていたのであろう、やや足早になっていた。

なるほど、子を進学させ教師にまで就かせてくれたのだ。教授もきっとお母上には感謝をされていることだろう。
地元から離れたところにいるとなれば、そうそう帰ってくることもままならないのだ。それなのに僕のせいで、一晩も足止めを食わされた教授には本当に申し訳なく思う。
ご実家に着くと僕もすぐに教授と一緒に、仏壇のお父上、そしてお母上とご家族にご挨拶を申し上げた。

教授の兄上と奥方がお母上の世話をしながら養蚕を営んでおられる。
教授たちが和気あいあいと話をされているのを見ると、僕も学校からここよりはうんと近い自分の実家にちょくちょく帰らねばならないなと想起させられた。実に和やかなひと時だ。

少しばかりゆっくりしていたが、もうそろそろここを発たないと日暮れまでに東京へと戻れなくなってしまう。
教授の兄上の奥方が握り飯と漬物を弁当として持たせてくださった。
お礼を言い別れの挨拶を交わし、教授の故郷を後にした。

しかし僕の脳裏にはあの少女の顔が何かと思い起こされ、後ろ髪を引かれながらであるから、昨日ここへ向かっていた足取りとはまた違った重さであることは間違いなかった。
                            第5章へ続く

第1章はコチラ 
https://note.com/soware/n/n929f8ababa57 

第2章はコチラ
https://note.com/soware/n/nbe86df520d77

第3章はコチラ
https://note.com/soware/n/n16d7c672023f


今回もお読みくださりありがとうございました。
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