ニートの小噺表紙

ニートの昔話~食べること~

 こんにちは、ニーフリでおなじみニートこと守田です。
今日はニーフリ102話で肉の話だったので、「食べること」について書いてみましょう。

 フリーターは納豆と豆乳とオクラ以外は割と何でも食べてる印象なのですが、ニートはめっちゃ偏食です。偏食って言ってもトマトとかトマトとかトマトとかトマトがめっちゃ嫌いとかトマトの何が美味しいのかわからずトマトの存在意義を考えたり種の部分の意味不明さと皮?果肉?よくわからない触感とあとめっちゃトマトって味がダメです。でもケチャップは許す…と、そんなところです。あとしいたけと肉の脂身とか骨の多い魚(喉に刺さったから)とかですかね…。なんか見た目がアレでソレな感じで味が想像できないものも無理ですね。そもそも「食べる」ということに執着がないな~と最近思い至ったので、少し過去を振り返ったら、何となくそれが原因のような気がする出来事があったので書いていきます。
 もともと食が細い事もあり、「お腹減った」という感覚が薄く、お菓子はめっちゃ食べるのですが、「ごはん」はあんまり食べたいなって思わないんですよね。皆さんはご飯の時間はどんな時間でしょうかね?よく、お外で食べるとおいしいとか、皆で食べるとおいしいとかとか…。それってとても重要なことなのかなっと思います。

 ことの発端は幼稚園の時のように思います。私は昭和の人間なので、覚えのある人もいるのではないかと思いますが、「お残しは許しません!」の風潮。(そりゃぁ、食べきれるに越したことはないと思いますが、そうもいかないこともあると思うのですよ)
 もともと食べるのが遅いし、あんまり入らないし、美味しいと思うもの以外はどうしたって口に入れるのが嫌な子供でした。でも、無情なことに、私の通っていた幼稚園はお弁当給食(親の作るお弁当ではなく、業者が作るお弁当)でした。母の作るお弁当なら、量もちゃんと考えられているし、慣れ親しんでいる味だしで、問題なく平らげる事が出来たのですが、いかんせんそのお弁当給食は本当にまずかったのです。今思い出しても何を食べさせられているんだろうと、幼心に思ったくらいですから、相当まずかったと思います。あと私には本当にお弁当箱が大きくて、とてもじゃないけれど、食べきれなかったのです。(とても小さい子供だった)

 毎日毎日、お昼の時間が来るのが憂鬱で、幼稚園に行くのも好きではなかったです。それでもお弁当給食の時間になったら、それを食さねばなりません。時間のかかる私は皆が食べ終わってもずっともぐもぐしていました。一応ちょっとずつ口へ運んではみるのですが、まずい。ご飯はおむすびになっており、他のおかずとの仕切りはひとつ。さらにおかずからでた汁が全部にひたひたになり、色は茶色。もう見た目から無理でした。デリケートな子供だったので。茶色って、食欲を減退させますよね。
 そんなわけで、休み時間の間に食べられない私は、先生から嫌味を言われながら、薄暗い倉庫に入れられて、「食べるまで出さないからな!」という日々を送っていました。(先生の言葉遣いも汚かったな~)
 もう自分だけそんな仕打ちなものだから、辛いし悲しいし、なんで食べられないことでこんなひどい事を言われるのか、本当にわけが分からなかったです。みんながみんな、同じではない、人にはそれぞれペースがあり、食べられる限界がある、そんなことも考慮されない「お残しは許しません」が私は怖かったです。美味しかったら食べられるのに、もう少し量が少なかったら、食べられるんだよと訴えてみても、文句を言うな、生意気な、と言うような先生だったのも不幸だったのかもしれないです。
 そんな毎日のある日、もう泣きながらお弁当給食を食す私に、組の子が声をかけて来たことがあったのですが、またそれが悲劇を生もうとは思いませんでした。
 「大丈夫?」と優しい声を掛けてくれたので、「しんどい」とぼそっと返した私の言葉に、その子はたぶん「しんどい」を知らなかったのか聞えなかったのか…いきなり立ち上がると、大声で先生に向って、「守田ちゃん死にそうだってー!!」と。それを聞いた先生がすんごい恐い形相で私のところまでやって来ると、お弁当を取り上げ、首根っこを掴んで「何が死にそうだ!おおげさな!!食べたくないからわざと苦しそうにするんだろ!」とヒステリックに叫びながら、また私を薄暗い倉庫に引きずって行きました。弁当を床に乱雑に放り投げて、私を突き飛ばして、「全部食べろ!」と鍵を閉めたのでした。そんなこと言ってないよ!ちがうよ!ごめんなさい!となぜか謝り、許しを乞うたけれど、怒っている相手には何一つ聞えないですよね。埃っぽい倉庫の中で、泣きながら食べるお弁当給食はもう涙の味なのだか、鼻水の味なのだか分らなかったです。こんなことが繰り返されて、「食べる」ということは私の中では「怖いこと」になったのかなと、思い起こしました。
 私の中での食べるという生命を維持する大切な行為は、「ただ食物を口に詰め込み無理矢理呑み込む作業」となってしまったわけです。
 そんなこともあり、「お腹がすいた」という感覚をなんだか感じなくなってしまったように思います。あと、この事件のせいで、自分の気持ちを絶対に誰にも話さなくなりました。
 子供が大人から受ける汚い言葉とか、嫌悪の感情だとか、本当に敏感に感じ取ってしまうと思います。ちゃんとわかってしまうのですから、子供だから…は通用しないと思っています。(大人から受ける言葉の一つ一つは子供からしたら本当に恐ろしいものです。)
 故に気分が悪くても何も言わず、黙っていて、最終的には突然吐き戻す(熱だけは出さない子供だったので、具合が悪いのがわかりにくかった)ようになったので、「なんで?!」と母が慌てることも多かったように思います。年間50ゲロ(ニーフリ参照)はあながち間違いではなかったのです。(最近は随分とマシになりました。自分でトイレに行く、洗面器を用意する、ゲロ袋を完備する等の対策も早くなりましたし…小さい頃は寝ている時にトイレにいく、ということすらしてはいけない事の様で何かと周りの反応に怯えた子供だった)
 以上を踏まえて、食べることが楽しいというのは本当に幸せなことなのだと思います。あと、当時の幼稚園とかってなんかすごかったな~と思いました。今ならモンペってやつが黙ってないのでしょうけれど。(時代は変わった…)

 さて、幼稚園で「食べる」ことは怖い事になってしまった私は、でも別段、食べられなくなる、ということはなかったのですが、見た目で美味しくなさそうなもの、直感でまずそうなもの、は絶対口に入れないマンをこじらせてしまいました。
そんなこじらせマンが今度は学校給食の脅威にさらされることになるのです。

 学校給食。これもなかなか強敵でしたね~。でもこっちが救いだったのは「美味しい時もある」ことですね。(あと、だいぶ知恵もついてきていたので「誤魔化す」ことを覚えました)幼稚園の時の弁当給食は美味しいものがなかったので。あと、当時はパンは持ち帰りOKだったのが救いでした。
 パンを食べる事は諦め、おかずを平らげる事に尽力しました。でもやっぱりここでも出るんですよね…「お残しは許しません!」妖怪。給食の時間、絶対出現しますよねこの妖怪は。本当に未だに、それならはじめから少なくしてくれ!、と思わずにはいられないです。でも給食当番がまた、頑なで…最後に残ったらそっちも怒られるので配分には最善の注意を払っていましたよね。自分が給食当番になった時には同じことをするので、給食当番を責めるにはいきませんでしたが。なんだか学校って変なところだな~と今更思いますね。当時は特に、きっちりかっちりしていたように思います。先生のいう事は絶対!みたいなところがありました。恐い先生ってのがたくさんいたからなんでしょうね。
 この給食で食べられなくなったのが、肉の脂身です。今までは普通に食べれてました…というかそんなもの気にしたこともなかったです。あれは豚肉だったように思います。なんのおかずに入っていたかは、もう思い出せませんが、口に入れて噛んだ瞬間、今までに感じたことの無いクソまずさが口の中に広がりました。形容しがたい、不味さ。まずい…本当にまずい。これは食べ物なのか?という疑問と、吐き出すに吐き出せない辛さ…一服盛られた?!と思うくらい衝撃の不味さでした。その一瞬で、肉の脂身が食べられなくなりました。それくらい衝撃の不味さだったのです。
 それ以来、肉という肉の脂身が苦手です。鶏肉の皮とかも無理です。妹なんかは脂身にもうまみがあると言いますが、あの不味さがフラッシュバックするので、無理です。
 そんなわけで、脂身のついた肉が出てくるたびに、絶望するようになりました。でもお残しは許されないので、肉をよけておかずを食べ、最後に肉だけを口に詰め込むと、涙目になりながら、先生のところに食器チェック(全部食べてるかのチェック。これも本当に不毛なチェックだな)に持っていき、OKを受けると、食器を片づけ、ダッシュでトイレに駆け込み、吐き出すという技で切り抜けてました。変なあだ名つかなくてよかったです。「肉詰め込みトイレマン」とか、「肉くってトイレダッシュ」とか。(小学生って辛辣だから)
 ただ、これはなんとか切り抜けたのですが、プチトマト(ミニトマト?)ってやつだけは本当に困ったので、パンの中に洞窟を掘って、その中にトマトを詰め込み持ち帰るという姑息な手を使ってました。たまにトマト大好きマンがトマトを吸い込んで行く時もありましたが。(天使かよ!って思ってました)あとは割と牛乳いっぱい飲みたい系男子が居たので、牛乳を生贄にトマトを相手の皿に召喚してました。(牛乳あげるから頼む、トマトを食べてくれ!とな)やっぱりなんか、食べるということが大変な時間でした。
 楽しく食べられる子が本当にうらやましかった。相変わらず量が多くて時間が掛かるので、一言もしゃべらずにただ黙々と箸を動かす時間でした。食器回収までに何とか食べないといけなかったから、もう必死でした。

 そんな給食時代を過ごしながら、ある日、一切の肉を受け付けなくなる日がやって来るのです。ただ、私のうちは所謂、転勤族で当時、山口県⇒愛媛県(実家)⇒高知県⇒愛媛県(実家)というように、行ったり来たりでした。
 これは高知へ引越した頃の話です。(少しばかり気持ち悪い話なのでお気をつけて)
 その日は雨が降っており、もう冬も近かった為、夕方になるともう暗かったように思います。当時ピアノを習っていたので、そのピアノの教室へ行くのが結構遠かったのです。雨なので自転車には乗らず、歩いて向かっておりました。街灯も少なく、割とくら~い道をてくてくと怯えながら(暗いのが本当に怖かったっていうか今も怖い)歩いておりました。小さな水路脇を進んでいたのですが、ふとびちゃっと、足下で音がしましたので、立ち止まり、水たまりでもあるのかとよくよく目を凝らしたら…なんとまぁ、ドブネズミの死体じゃないですか。多分車に轢かれたと思わしきその死体を、暗いために判別つかず、踏んでしまったのです。
 もう、気分は最悪ですよね。言葉にならない絶望。死んでいるとはいえ、生き物だったもの。それを足蹴にしたことは、本当に良い気分ではなく、やってしまった…感がものすごかったです。しかし帰るわけにもいかず…その最悪な気分のままピアノに行き、ピアノも好きではなかったので(良い先生に当たらなかったし、本当に興味がなかった)、更に最悪な気分は増し、帰りもその道を通らなくてはならないので、もう泣きそうになりながら、行きとは反対側を通って帰りました。なるべく見ない様にしたけれど、やっぱりもう一回見てしまうのが人間心理です。アホな私は見てしまいました(こういう時の好奇心ってなんなんでしょうね?)。サーッと血の気の引く様な音がして、気分を悪くして家に帰ると、なんとまぁ…カレーだったんですよ。お肉入ってるじゃないですか。肉片踏んじゃったじゃないですか…無理でした。もう無理ホント無理ってなりました。そこからしばらく、お肉が食べれなくなったのでした。あ、しばらくカレーも無理でした。(今でもそこまで好きではないですが)
 小学生にはキツイ出来事でした。

 食べられなくなるきっかけっていうのは覚えているのですが、どうやって食べられるようになったかは覚えてないです。時間の経過とともに、嫌な経験も薄らいでいったのかも知れないですね。

 と、まぁ、こんな感じですが、フリーターと一緒に暮らして、ご飯タイムは楽しいです。なのでちゃんと食べております。ただし、脂身の多いお肉はフリーター側に積まれていきますがね!フリーターもこの肉は食べれるでしょーっ!とか言いつつ、食べられる、食べられない判定しながら食しております。
 皆様も、食事は楽しく!ですよ。

 ここまで読んでくださってありがとうございました!
ニーフリの四コマ動画マンガもぜひぜひよろしくお願いします~!
書籍化しませんかね?(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?