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私はなんのためにnoteを書いているんだろう?

今日記事を投稿したら、連続42日投稿になるらしい。

うれしいな、と思うと同時に、ここ数日、「わたしはなんのためにnoteを毎日書いているんだろう?」という、ふんわりとした疑問が頭をもたげてくるようになった。


理由はたぶん、単純で。
自分が納得できる文章を書けていないように感じているからだ。


じゃあ、納得できる文章ってなんだろう?

それは文章表現の巧みさとか、記事の内容が誰かにとって価値提供をすることができているのかとか、そういうことではなくて。
言ってみれば、漠然と理想として描いて自分が「書きたい」と思う文章を書けていないという、不満足感だ。


じゃあ、自分が理想として描いている「自分が書きたいと思う文章」ってなんだ?っていう話になるんだけれど。わたしは、日常のふとした出来事を切りとって、それを情緒あふれるかたちに表現した「エッセイ」を書きたいと思っているんだなぁ、というところに思い至った。

いつも読んでくださっている方の一人くらいは、もしかしたらもしかして、「既にエッセイっぽい記事書けてるじゃん」と心のなかでツッコミを入れてくれているかもしれないけれど(万が一にもそんな風に思ってくださっている方がいたら、心の底からありがとうございますを伝えたいです…!!)

でも、なんとなく自分的には、わたしが書いている文章って、なんかエッセイじゃないんだよなぁって思ったりしている。特に、最近書いていた文章は。


じゃあ、わたしにとっての「エッセイっぽい文章」ってなんだろう?って考えてみると…。
これまた漠然としていて、なんとも掴みどころがないのだけれど。こう…。日常の具体的な出来事を切りとって、それをちゃんと表現している感があること。そして、なんとなく、その文章の根底に、日常生活をていねいに過ごしている感があること。

このふたつが、わたしにとっての「エッセイっぽい文章」なのだと思う。それに引き換え、わたしの最近の文章は、ただの日記の延長のようなものだなぁって思ったりしている。

もちろん、引っ越しがあったりで、生活がガラリと変わったので、時間的にも精神的にも、あまり余裕がなかったから、noteにかけられる時間がかなり減ってしまった節はある。でも、そもそも論、「切りとり力」と「保管力」の問題なのかなぁって思っていたりする。


日常のふとしたささやかな出来事や、そのときに動いた心の機微を、どこかに飛んでいってしまわないよう、そっと手のひらの中に包み込んで。それを、1日が終わり、子どもを寝かしつけ終わって、パソコンの前に座るまで、大切に持ち続けていられる力。

わたしに圧倒的に足りていないのは、この能力だなって感じている。

実際、日常のなかでは、さまざまな場面で言葉があふれ出てきて、自由に脳内で文章を編み上げていっているのだ。ただ、リアルタイムでパソコンやスマホに向き合って、その瞬間を切りとって、文字として書くことができない。だから、「後で書こう」と思うんだけれど。いざ、数時間後や半日後にパソコンの画面の前に座ると、「なんだっけ?」となってしまう。

そのときに感じていた感覚や、風景のきらめき、そこで揺れ動いた心の機微などが、忘れ去られていってしまう。そもそも、そういった日常のなかでのふとした瞬間たちを忘れないでいられるように、noteという場所に、エッセイという形で保存しておきたいのに。保存まで行きつかない問題。冷凍庫に入れる前に、氷溶けちゃってますけど問題と名付けようか。実際、体感としてはそんな感じだ。


これは、時間の問題なのか、それとも能力の問題なのか…。
もちろん、わたしが「書きたい」と思っている文章表現が、わたしにとって得意なものではないという要因もあるのかもしれないけれど。

書く時間を確保することは、この40日間ちょっとで、少しづつできるようになってきた。ここからは、書く時間の確保だけではなく、書いている時間の"質"の確保も、大切になってくるのかもしれない。

そんなことを思いながら。
今日も、自分が望む、ていねいさが垣間見えるおしゃれな文章は書けなかったけれど。

まあ、それも、noteという場所で書くことを継続することに挑戦している、わたしの成長の記録だよな。ということにして、この文章をまとめてしまおうと思う。正直、納得はしていないけれど(笑)

いつか、わたしが「書きたい」と思っている文章を、ちゃんと書いてあげられるように、なりますように。

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