今回の日本帰国は、ピラティスのインストラクターとして すでに活躍をしている方々に私のピラティスの指導スタイルを伝える内容でした。 そのスタイルをSoul Of Pilates と名づけました。 なぜならば、一人ひとりの魂があるように、 一人ひとりのピラティスの在り方があっていいと思うから。 そして、その人の魂をピラティスを通じて輝く方向へと連れて行けると思うから。 インストラクターたちの前のめりになって聞く姿勢に、私も応えたいという想いがお互いに共鳴しながら、どんどん
アメリカでピラティスを学んでいると、たくさんのインストラクターが声を荒げていう。 Suck your belly! Suck your Stomach! かつての私も言っていた。 でも、今は、この言葉が無駄なだけではなく、体に悪影響を及ぼすかもしれないことを理解して、この言葉はほとんど使わなくなった。 もちろん、体のエネルギーの流れを見て、伝えた方がその人にとってベストなのであれば、伝えるけど、私のレッスンでは伝えない方が多い。 それよりも、体を使っていく中で自然
私が2008年にピラティスを教え始めてから たくさんの人がレッスン中に涙を流し、人生が変わったという。 なぜか。 私が何かの魔術をするわけでも トークセラピーをするわけでも 特別な技術があるわけでもない。 ただひたすらその人が持っている筋肉を最大限に活かして動かそうと ピラティスをしてもらっているだけ。 おそらくだけど、 ほとんどの人が解剖学書を読みすぎて、 「筋肉はこう動くべき!」と思い込みで体を動かさせている。 その手法は クライアントさんもやった感じがするし
動きにはその人の思考ぐせがよく見える。 どんな信念を持って、生活をしているのか動きからよく分かる。 だからと言って、この動きがイイとか悪いとかはない。 ただ体を見て、その人の生き方の思いに触れることが出来て私は光栄だと思う。 私がやることは、この動きがイイとか悪いとかではなく、 自分の体につながることをしてほしいっていうのを切に願って探している。 一人のクライアントさんが、動かそうとしていた。 重たくて、腕で動かせるわけはない。 でも、動かそうとする。 何がなんでも動か
私がアメリカでピラティスを学んでから 多くのピラティスのワークショップやレッスンを受けてよく耳にすることがある。 「前モモを使うな」 と言うことだ。 確かに、ジェイからこんなエピソードを聞いたことがある。 ジョッセフピラティスのところで当時バレエダンサーとしてピラティスを学びに行っていたジェイ。 彼がピラティスのスタジオで立っていると 普段は物静かなピラティスの内縁の妻であるクララに 前モモを叩かれて「体の使い方が間違っているわね」と言われたと。 確かに前モモがや
ほとんどの人がコアを使うと言う意味を知らないのだと思う。 一生懸命に腹筋運動をして、 一生懸命に腕立て伏せをして、 動きのなかに腹筋がブルブルする瞬間があれば これでいいのだ!とばかりに 信じ込んで動く。 でも、腹筋ばかりをタイトにしていくと 後々、体を壊すことになる。 腹筋ばかりに集中していると 「私はこんなに頑張っているのです!」 と言う人間になっていく。 走れメロス状態になる。 走れメロスは 「俺が届けなければ」と躍起になって 友達との約束を守った。 そして、
世界をどう見るかというのは二つに分かれると思う。 世界は、敵ばかりだ か 世界は、味方ばかりだ のどちらかである。 そしてほとんどの人が、世界は敵ばかりだと見ている。 その表れが自分に自信がないという形で現れてくる。 もしも世界が味方ばかりであれば、 自信なんてことを考えず、やってみる!やってみようとなるはず。 でも世界は、敵ばかりだから、自分がやろうとすることに いっぱい反対をする人がいると感じている。 それをメンタルから変えようとすると 分析ばかりになって、
私の父は、学校の教師をしていました。 私は父が大好きです。そして尊敬をしています。 彼は、畳一畳ほどの畑を持っていました。 そして、退職してから、そこで農作業を始めました。 毎日、脚繁く畑に通い、野菜のお世話をしていました。 畑を耕し、種や苗を植え、そして、水を上げました。 育つ植物を大切に育てました。 大切にと言っても、手厚く扱うことはありませんでした。 雑草が生い茂る中、ぐんぐんと力をつけて育つ作物はとても力強さを感じました。 ある初夏の日。 嵐が来ました。 雨
先日のレッスンで、とてもいい流れで動けているクライアントさんがいた。 彼女がこのまま今まで到達できなかったところに体を持っていけるであろうポジションに入った時、彼女は夢から覚めたかのようにブレーキをかけて 「私、できません」 と言った。 彼女は確実にゾーンに入っていた。 確実に私の手から離れて自分で立とうとしていた。 それができる所まできたのに、 そこにそのまま突入することを必死で抵抗し、諦めた。 その彼女が今日、レッスンに戻ってきた。 「あの動きをどうしても今日やり
ある夏の日。 日本に帰国している時に、ピラティスのインストラクターが集まって 私のワークショップを受けてくれていた。 ロールアップというエクササイズをしているときに 1人のインストラクターが隣りでボロボロ涙を流していた。 「どうしたの?」と聞くと 「今まで学んできたことってどこかに矛盾があったんだけど、ここに答えを見つけた気がします」 と言っていた。 しっかり本物を伝えたくて学んでいる人はそう感じるのだろう。 彼女の中に、過去の私を見た気がした。 どこの流派に行って
ほとんどの人がピラティスをすると、頭から動き始める。 そして、それをハラから動かさせるようにガイドすると 大きく拒否反応を示すことがある。 嫌だと。 怖いとも感じるようだ。 それはわかる。私たち人間は何かを理解してから動きたい。 知らないものに飛びかかるよりも 一旦、理解して、安全を確認する。 ただ、それだと遅くなる。 動きが何秒も遅くなる。 そして、自分の感覚で動けていたものが 頭が一度入ることによって、体のテンポとずれて体にダメージを与えていることを気づいていな
ピラティスの「フットワーク」はいろんなポジションがある。 ピラティスVというV字から始まって、最終的にはカカトをバーに乗せた後 テンドンストレッチで終わる。 私が初めて習ったピラティスはモダンピラティスで バレエを長年教えてきた女性がインストラクターだったので このフットバーを使って、バレエのバーレッスンをするかのように足のポジションが沢山あった。 2番と言って、足を広げてバレエでいうグランプリエをすることは必ず入っており、その他の有名な先生のレッスンでは、足をX脚にして
運動をする人は、なぜか自分をいじめる人が多い。 運動をする人は、そのいじめが自分を成長していると勘違いをしやすい。 気持ちよかった・楽しかったはずの運動が いつの間にか、「これができない」、「これができたら・・・」と 自分を追い詰めるメンタルに変わっていく。 その瞬間に楽しいだけの無条件の愛が、 私は十分ではないが、これができれば価値がある という条件付きの愛を自分に与え続け始める。 そして、その体の使い方をしていると、それを外の世界にもし始める。 自分の仕事の向かい
”自分がちゃんとしないといけない。” その意識を手放してください。 「マシンがちゃんとしていないと思っているあなたが想像もしない素敵なあなたへと連れて行ってくれると信じれますか?」 そう私は彼女に伝えた。 彼女はちゃんとしている人だ。そして、ちゃんとしている枠に止まっている人でもあった。 ボックスに乗り、体の全ての筋肉が一丸となって動きの波を織りなしていく。 そして、私は彼女のお腹に手を置き、彼女の動きを誘っていった。 全ての動きが鳥が羽根と風に身を任せて飛び続ける
サムに出会って、クラシカルピラティスを学んで何が一番変わったかというと マシンの使い方だと思う。 今までは、マシンを星飛雄馬でいう養成ギブスのように扱っていた。 ”スプリングの強さが強いほど、それに抵抗する力がつけばつくほど 私は強くなる。” 中学生の時に駅伝で速くなりたくて、足に重りをつけて生活をしていた時期があった。私の中での理論は、この重石を外した時、私の足は空を飛ぶ如く速くなっているに違いないと。 でも、そんなの一瞬しか体験できない。 足が軽くなったなあ、というだ
クラシカルピラティスを学び始めて、私の指導は劇的に変わった。 今まで見てきたビバリーヒルズのクライアントさんは手放すことを決め 自分でサンタモニカにオフィスを持ち始めた。 クライアントさんが悪かったわけではない。 でも、私の指導をもう一度、イチから変えたかった。 私の指導を知らない人から始めたかった。 今までの私は、ピラティスというマシンを使って いろんな動き方を考案してはクライアントさんに提供をしてきた。 あたかも、遊園地に来てワクワクする子供のように 「今日はどんな