見出し画像

ワイルドサイドを行け #2

 誤解を恐れずに申し上げますれば、文学にとどまらず全ての学問は、既存のシステムに対するアンチテーゼであります。ですからよいこのみんなはけっして学問なんかしてはいけませんよお。あれはわるいこがもっとわるいこころをもつためにするものなのです。

 ところで、その「わるいこころ」とは何か?

 「わるいこころ」すなわちあらゆる物事を疑って見るという姿勢です。これを別名知的好奇心と呼びます。バンドマン同様、学問にはまっている者たち共通の、夢見がちな幼さはこれに由来しているんではないかな。

 ではいったい大人とはなんぞや? 子どもとはなんぞや?

 もう何年も前になりますが、トヨタのヴェルファイアという車のCMで黒ゴリラと白ゴリラが出てきて対話するというものがありました。

 このCMはバージョンが2種類ありまして、まず1本目は黒ゴリラだけが出てきます。黒ゴリラがまっすぐこちら、つまり私たち消費者を見据えて言います。

「大人であるおまえに、尋ねたい」
 続けて以下のことをたたみかけるように言います。
「常識におさまって安心していないか?」
「人に流されていないか?」
 そしてこのように結びます。

 ──あのころのおまえは、まだ生きているか?

 2本目は白ゴリラと黒ゴリラがオセロで対決します。
 で、こういうやりとりがおこなわれます。
 白ゴリラが
「規律」
と言ってオセロの白いコマを置くとすぐに黒ゴリラが
「自由」
と言って黒に返します。次に白ゴリラが
「協調」
と言って白いコマを置くとこれもまたすぐに黒ゴリラが
「個性」
と言い返してコマを黒に返します。白ゴリラが
「常識」
と言って白いコマを置きますが、これもやはり黒ゴリラが間髪入れずに
「冒険」
と言って黒に返します。
 白ゴリラが
「きみは、何者だ?」
と尋ねます。すると黒ゴリラが答えます。

 ──おれは、おまえがあきらめた、すべてだ。
 
 おわかりだと思いますが、白ゴリラが「大人」(厳密には「老成した者」)の象徴で、黒ゴリラが若者の象徴です。

 このCMはあらゆる意味で秀逸だと思うわけですが(ようつべにアップされています。「ヴェルファイア CM ゴリラ」あたりで検索すると出てきます。よいこのみんなはこんなくだらないCMみちゃだめだぞ。こじらせちゃうからね。)、一面的とはいえ、「大人」とはどういうものかをだれにでもわかりやすく言っています。

 「大人」すなわち「規律」と「協調」と「常識」を重んじる者、です。なんだかまるで私のような学校の先生みたいで気持ち悪いですね。これに対して若者はアンチなわけです。

 「若者」すなわち「自由」と「個性」と「冒険」とを求める者、です。且つ、「大人」があきらめたすべてを体現している者、です。なんだかかっけー。まあ、理想としてはこの両方を備えていたいですよね。

 ここで注意しておきたいことは、CMの戦略としてこの厨二病的世界観を展開したということは、少なくともヴェルファイアという車種の価格設定などから推測される主なターゲット層=「30代以上の男性」たち誰しもの心の片隅には「アンチなものとしての若さ」への憧れが息づいている、ということです。
 CMというものが必ずマーケットリサーチに基づいて製作されていることから考えれば、このことは首肯せざるを得ないところでしょう。もっと驚くべきことは、この商品は一定以上の年収と、一定以上のビジネス上の成功をおさめているまさしく「大人の」男性を想定購買層にしており、厨二病はおろかあらゆるアンチ精神から最も遠いところにいると思われる人たちに発信したものだということです。

 この点も併せて考えますと、冒頭で述べさせていただいた、毒があること、アンチであること、少年たちの永遠の夢の世界を体現すること、なんかは万人の「大人」の心のどこかにある普遍的な憧れであることの証左だと言えましょうか。たかが厨二病、されど厨二病。たかがロケンロー、されどロケンロー、であります。
 ロックとはつまりこういうものなんです。本気で世界を変える、世界が変わるなんて思っていない。社会に貢献する気持ちもさらさらない。ただひたすらにたてつくこと、本気で遊ぶことそのものがロックなんですね。よいこのおともだちはこのお話の趣旨をカケラほども理解なさることがおできにならないかと存じます。偉そうなことを申し上げますれば、縁なき衆生は度し難しといったところです。

この記事が参加している募集

スキしてみて

サポートあってもなくてもがんばりますが、サポート頂けたらめちゃくちゃ嬉しいです。