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『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』は、SW信者にとって「踏み絵」かもしれない

新三部作の完結編は、スター・ウォーズで育った僕らに、現実を突きつけてくる。
今こそ、シリーズへの信仰を試される分水嶺。心して観ましょう。



前作までの記事



【※I've got a bad feeling about this! 】

(ネタバレ注意!)



はじめに


虚しい。

『スカイウォーカーの夜明け(以下ROS)』を観た直後、そう思いました。


悲しい。

賛否両論が渦巻く、ネットの世論を見て思いました。


色んな意味で特大級の爆弾であった『最後のジェダイ』から、はや2年。

当時は大いに心をかき乱され、様々な思考を重ねた末に、ようやく心を落ち着かせたものでした。



しかし、いざこうして3部作が完結しても、なんら終わってはいない。

ネットの論争も終わってはおらず、『最後のジェダイ』で提唱された物語が終わったという気もしません。


嗚呼、私たちはスター・ウォーズを愛してやまない人種ではなかったのか。

思い返すのは『ジェダイの帰還』の終盤。

皇帝を前にしても怒りに身を任せず、ダークサイドに屈さずに、父ベイダーを信じて決死の覚悟でライトセーバーを放棄した、あのルークの背中に憧れた人種ではなかったのか。

ファン同士、なにゆえ剣を交える必要がありましょう。


『スカイウォーカーの夜明け』を経た今、我々はいったい、何を突きつけられているのでしょうか。

私たちがもはや二度と『スターウォーズという神話を心から信ずることはできない』という事実が明らかになったのではないかと、そうも思えました。



私は思いました。今は自分を律するべきだと。

自らが、旧作の幻影を膨らませて神格化してはいないか。

新作への勝手な希望を抱き、気に入らなければ排斥する陳腐な存在と成り下がってはいないか。少なくとも、スター・ウォーズはそんな状態のファンを満足させるためのものではないはずだと。


というわけで、本記事は『スカイウォーカーの夜明け』についてのレビューなのですが、同時に『新3部作が終わった今、スター・ウォーズファンは何を思い、どう生きていけばいいのか』という自分のための整理をかねた記事になっています。




新3部作を振り返る


あらためて、新3部作を振り返ってみましょう。

1作目『フォースの覚醒』は、旧3部作に対する過剰なまでのオマージュとファンサービスに徹していました。新奇性はないものの、新世代のキャラクター達には大いに可能性を感じさせる作品だったと思います。

そして2作目『最後のジェダイ』は、スター・ウォーズ史に投じられた巨大な爆弾でした。

映画としての完成度には疑問が残りつつも、中に通っているテーマや思想はものすごく真摯にSWに向き合っている…というチャレンジブルな作品であり、その志が高かったことは間違いありません。

(その代償としてスター・ウォーズとしてのフォーマット破りを起こしたことで、シリーズ全体の今後を変質させかねない危険はあった、というのが私見です。詳しくは『最後のジェダイ』記事にて)



私は2年間、『最後のジェダイ』を観て平静ではいられませんでした。でも、『最後のジェダイ』については肯定も否定もしていなかったのです。

自分の中での結論として、「『最後のジェダイ』は雑な部分も多いが、誠実に作られている作品であり、その成否は単品では判断できない。シークエル3部作としての完成度は、EP9に託された」

…と思っていたからです。


そして、いざEP9『スカイウォーカーの夜明け』を観たとき、シークエル3部作は何だったのか思い返してみたのですが… 悲しいことに、私が思うには、『商業主義的なプロダクト』だったのです。

『もはやスター・ウォーズは、現代の神話でもなければ、作品であるかも怪しい、製品である。』

言葉が過ぎるかもしれませんが、正直な感想でもあります。




本題:『スカイウォーカーの夜明け』について


とはいえ、私は『スカイウォーカーの夜明け』という映画そのものを嫌悪している訳ではありません。

『フォースの覚醒』の頃に戻ったようなファンサービスの連続、前作までの伏線の取捨選択、スケールの大きなバトル、巨悪を倒しての大団円。

とても「スター・ウォーズっぽい」体験はさせてもらえたし、そういう意味では楽しんで観ました。


ですが、3部作を通じてみて…とくに『最後のジェダイ』との連続性について見てみると、どうでしょう。


  • 何の伏線もなく、レイの物語をまとめるための巨悪として『パルパティーン皇帝』が復活。

  • 味方サイドではレイアを「すべて理解していた人物」的に、なかば神格化して都合よく利用。((レイアの有無を言わせぬ特別待遇と退場は、キャリー・フィッシャーの死を楯にとった反則技にも思えてしまいます。))

  • さらに、亡きルークとハンの後を請け負う便利な存在として、今さらランドが登場。

  • 『最後のジェダイ』で示されたテーマやドラマは都合よく取捨選択。都合の悪い部分は上書き、そして論点スライド。

  • とくに重要テーマだったはずの『何者でもない者たちの物語』という側面は切り捨てられ、ほんの上辺だけ撫でられて終了。


『スカイウォーカーの夜明け』は、『最後のジェダイ』を真正面から受け止めてもいなければ、全否定もしていません。

ただ、話を終着点に持っていっただけです。

辻褄を合わせ、論点をずらし、不都合なポイントには旧3部作の威を借りた力技を持ち込んで観客たちの目をそらさせる。

ファンの観たい画を提供し、有無を言わせないようにした上で、なんとか物語を着地させたのです。


正直に言いましょう。

鑑賞中、私の感じた感想は『ああ』『そうですか』『そうしてしまうのか』『きっと、そうするしかなかったんだろうな』…といった、感情のともなわない無機質なものでした。


「おおっ!」と興奮したのは、「皇帝」イアン・マクダーミドの怪演をふたたび劇場で聞けた瞬間と、「ウェッジ」デニス・ローソンがカメオ出演しているのに気づいた時くらいです。どっちも旧作ネタですよね。

プリクエルの頃、EP3をはじめて観た時には涙が止まらなかったのに、EP9ではこのくらいしか興奮ポイントがなかった。


『最後のジェダイ』で提示したテーマや新機軸は、大事に扱われたとは言えず、有効利用されることなく終わってしまいました。

これがもし『最後のジェダイ』を真正面から受け継いでいれば、もっと味わい深い作品になった可能性が大いにあったと思います。

もし最初からこんな着地点を目指していたのなら、『最後のジェダイ』をあのように作るべきではなかったでしょう。

しかも、それによって結果的に3部作は、

『最後のジェダイ』も不完全燃焼

『スカイウォーカーの夜明け』も不完全燃焼

という始末となり、じつに、じつにもったいないことになってしまったと思うのです。




スター・ウォーズ信者にとって、信仰を試される映画


さて、この記事のタイトル通り、私は本作を『スター・ウォーズ信者にとって、信仰を試される「踏み絵」のような映画』だと感じています。


スター・ウォーズファンは、(とくに旧3部作のことを)伝説として崇め奉り、特別視して生きてきました。

そんな人が『スカイウォーカーの夜明け』を観たとすると、否応なく「スター・ウォーズは伝説ではなく、プロダクト=製品である」ということをまざまざと感じさせられてしまうんです。


シークエル3部作を通してみた時に浮かんでくる不協和音は、信者にさえも『作り手の都合』や『大人の事情』を感じさせてしまうほどに、いびつなのです。

それはすなわち、不信心であります。
そもそも信者というものは、与えられたモノに文句を言ったりしないのです。

天から下賜されたものを、ただ享受していればよいのです。

ですから、キャスリーン・ケネディやJJ・エイブラムスや、あるいはライアン・ジョンソンに文句を言いたくなる時点で「信者」とは言いがたい。それはもはや顧客(カスタマー)です。


もちろん、シークエルを素直に楽しんだ方もいるでしょう。そういう方々は幸福ですし、素直にうらやましく思います。

たぶんレイやフィンやポー、そして誰よりもベン・ソロ。彼ら新世代のキャラクターが好きで感情移入して観ていた方には、シークエルは新たな伝説だと感じられるかもしれません。


しかし、悲しいかな、私は小賢しい知恵をつけすぎた。

かつてモス・アイズリーの酒場のヤバさにドキドキしたり、ホスの戦いで手に汗握ったり、ヨーダの説法に感じ入ったり、デス・スターへの突入に夢中になっていた、あの体験をふたたび味わうことは難しいのです。


今はただ、旧三部作もプリクエルも含めて、『あれは伝説ではなく映画だった』ということをまざまざと見せつけられたようで、落胆よりも寂しさが勝ってしまうという心境になってしまっています。


『 イッツ・オンリー・スター・ウォーズ』

ここで、私と同じような気持ちになった方がいたら、もしかしたら役に立つかもしれない言葉を贈らせていただきます。

『イッツ・オンリー・スター・ウォーズ』

「たかがスター・ウォーズ」…とでも訳しましょうか。


これはスター・ウォーズの価値を貶める言葉ではありません。
今の我々には、この考えがものすごく大事です。


私は「ロック」という音楽ジャンルが総じて好きなのですが、このジャンルは時に反骨精神の象徴のように言われることがあり、その長い歴史の中でいろいろなイデオロギーや商業主義に利用されもしましたし、時代が下るにつれて際限なく多様化し、膨らみ続けてきました。

その流れに対して、誰かがまた反骨精神を発揮して、名言を吐いたのです。

『イッツ・オンリー・ロックンロール』

しかし現に、今日もロックは人を楽しませ、ときに救っているのです。

ロックの重ねてきた歴史、偉大さ、ファンにとっての重要性…なんてことは分かりきった上で、だからこそ、「たかがロックンロール」と言ってのけているのが、この言葉です。


さて、もともとスター・ウォーズは御存知の通り、フラッシュ・ゴードンやパルプ小説の土台に立った王道的な活劇映画に、最高峰のアナログ特撮と素晴らしいデザインをぶち込んだ、ビジュアルショック映画でした。
一流の人間ドラマや、作り込まれた設定考証とは無縁な作品だったはず。いったい、いつからそんなものを期待されるようになったのやら。

しかし一方で、もはやスター・ウォーズは少ない言葉で評価を断じるには、あまりにも巨大過ぎるファンダムを抱えています。
映画史上に残る偉大なシリーズであり、多くの人にとって特別な存在であることに、疑う余地はありません。


だからこそ我々は今、「たかがスター・ウォーズ」と唱えながら、シークエル3部作、そしてこれから続くであろう、ディズニー傘下でのフランチャイズ作品たちに向き合うべきなのではないでしょうか。


過去作の焼き直しもあるかもしれない。

想像の余地を奪うような、補完的な映像化がされるかもしれない。

ファンの常識を覆すような、二次創作っぽい後付け設定が開陳されるかもしれない。


何が来たとしても、恐れることはありません。
「たかがスター・ウォーズ」
そのスター・ウォーズを我々は愛してしまっているのですから。

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