『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を観るための心構えとして『フォースの覚醒』を振り返る
世界一の愛されシリーズ、スターウォーズの新たな三部作!
その2作目となる『最後のジェダイ』公開を控えた今、心構えをするべく『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を振り返ります。
【※201712月執筆『フォースの覚醒』の視聴を前提とした振り返り記事になります。】
『スター・ウォーズの新作を迎えるにあたっての心構えが必要』な面倒くさいファン精神
さて、来る12/15、『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』が公開されます。
私にとって「スター・ウォーズ」は原体験として非常に大きな存在であり、愛するシリーズの一つでもあります。
当然、新作にも期待がつのるところなのですが、正直『最後のジェダイ』をどういう心づもりで鑑賞すればよいのか気持ちの整理がつかなかった為、今回は筆をとりました。
『スター・ウォーズ』シリーズが、映画シリーズとしてもプロダクトとしても、特異な存在であることに異論を挟む人はいないでしょう。
グッズが欲しくてたまらなくなる、圧倒的に斬新でユニークなデザインワーク。
同時代で最高峰の特撮。
世界一のインディーズ映画という事実。(今はディズニーになってしまいましたが)
ストーリーとしては古めかしく明朗快活な英雄譚をベースにしつつも、洋の東西を問わず様々な要素を詰めこみまくった究極のオタク・メイド映画であり、だからこそ唯一無二の存在です。
40年にわたって我々を楽しませ続けてくれている偉大なシリーズと言えましょう。
その最新作を受け止めるにあたって、心の準備も必要というものです。
スター・ウォーズファン的な自己紹介
さて、スター・ウォーズについて語る前に、『私は何者なのか』を明らかにしておきましょう。
というのは、スター・ウォーズはその歴史の長さとファン層の幅広さゆえ、スタートレックとは比べ物にならないほど“界隈”が入り組んでおり、ややこしい世代論・文化論と無縁ではいられないからです。
(逆に言えばこのことが、スタートレックの魅力の普遍性をよく表しています)
ファンの数だけ主観と評価軸があるので、まずは私の立ち位置を明確にいたしましょう。
本ブログをご覧になるような方は当然ご存じでしょうが、前提知識として紹介しますと、スター・ウォーズは劇中の時系列と、制作時期の順番が前後しています。
1977年~1983年公開 エピソードⅣ~Ⅵ (オリジナル・トリロジー)
1999年~2005年公開 エピソードⅠ~Ⅲ (プリクエル・トリロジー)
2015年~現在進行中 エピソードⅦ~Ⅸ(シークエル・トリロジー)
私はエピソードⅥの公開後に生まれ、リアルタイムとしては10代の頃にプリクエルを見ていた世代です。
『生まれた時すでにスターウォーズが存在していた』
『少年期にエピソードオリジナル3部作に惚れ込み信奉した』
『青年期にリアルタイムでプリクエル3部作を鑑賞した』
という感じです。
シリーズに対する個人的評価は以下のように考えています。
オリジナル3部作は想像性と魅力あふれる傑作。超一流のB級映画とでも言うべき愛すべき唯一無二の存在。
プリクエル3部作は「蛇足」などとは思わないし好きな部分も多いが、もっと良くできたはずの点は多々ある。
このようなスタンスです。
前置きが長くなりましたが、以上の自己紹介をふまえてようやく『フォースの覚醒』の話に移れます。
『エピソードⅦ フォースの覚醒』を振り返る
さかのぼること 数年前、『エピソードⅦが制作される』・・・というニュースが報道された時、私は震撼したものです。
なにせ、『ジェダイの帰還』できれいに完結した話の続きであり、世界で何億人もの人が愛するシリーズの続きを紡ぐという想像を絶する大役を、しかもJJが手掛けるというのですから、さもありなん。
とはいえ、いちファンがゴネたところでどうなる訳でもありませんから、期待と不安が入り混じりつつも、坐して静かに待っていたワケです。
さて映画が公開当時、私は友人とともに映画館へ行きました。
そして『フォースの覚醒』を鑑賞後、私は『う~ん、そうか…』と呟いて、モヤモヤとしたものを抱えながら劇場を後にしたのです。
上映前は私も、『よし、まずは映画を思いっきり楽しんで、その後は友人と一杯やりながらオタク・トーク全開で語らい合おう』と、すっかり楽しみにしていたものですから、上映後の私のテンションの低さに、友人も困惑気味だったのを覚えています。
面白くなかった、不満だったという訳では決してないのです。
オールドファンへのサービス満点だった。
新しいキャラクター達も魅力的だった。
映像も素晴らしい出来だった。
てんこ盛りの力作を見させてもらって、むしろ幸せというべきでしょう。
それなのにモヤモヤとしてしまうのは自分としても大変遺憾でしたが、これはもう『乗り切れなかった』としか言いようがありません。
当初は自分でも、その気持ちの整理をつけられなかったのですが、この対談記事を見たことでモヤモヤが腑に落ちました。
この記事内の高橋ヨシキ氏の発言を抜粋してみましょう。
『過剰接待』
じつに的を射た表現で、私の心境はまさにそれでした。
例えるなら、サービス過剰のレストランのようなものです。
ディナーを食べに行ったら、オーナーシェフのJJが『お前、こういうのが好きなんだろう?たんまり用意したぜ!』と、腕によりをかけて作ったコース料理が次から次に運ばれてくる。
それらは確かに私にとって好物ばかりなのだけれど、食べきる前に次の料理がどんどん運ばれてきて、『美味しいですねぇ、シェフありがとう』などと社交辞令を並べているうちに、コース半ばにして食傷ぎみにもなる。
2時間半、食べに食べ抜いた後は満腹にはなるのだけれど、食後に『美味しかったか』と聞かれると、あまり味わったような気がしない。
そんな感じの気持ちになったのです。
世間では『フォースの覚醒』はかなりの高評価を得ており、ファンはおおむね新しい三部作を歓迎しているようでしたので、私はちょっと取り残された気分でした。
『スター・ウォーズ』に何を期待しているかは、人によって異なる
そもそも、スター・ウォーズという映画自体が『超・ごった煮』の作品であり、評価軸の種類が多すぎるため、ファン個人ごとに『スター・ウォーズに何を期待するか』は千差万別です。
たとえば、一口に『鉄道ファン』と言っても『撮り鉄』と『音鉄』と『乗り鉄』では鉄道に対して期待する価値は、多分まるで異なるでしょう。
スター・ウォーズのファンも似たようなものです。
ライトセーバーによる剣戟が好きな人もいるだろうし、SFXによる壮大な宇宙戦争のシーンを楽しみにしている人もいるでしょう。
親子のドラマや、ジェダイの東洋哲学風の精神性や神秘性が好きな人もいる。
カッコいいメカニックを求めている人もいるし、おなじみのテーマ曲や名ゼリフの天丼を期待している人もいる。
築き上げてきた「ひとつの文化」としての役割を求める、評論家めいたファンもいるでしょう。
そして、恐らく『フォースの覚醒』は『それら全ての要求に、可能なかぎり的確に応えよう』と意図して作られた、サービス精神の塊のような映画です。
オールドファンが求めるもの全てがそこにあり、オリジナル3部作から数多くの要素を継承しつつ、ほどよい程度に新しいキャラクターが盛り込まれ、世代交代が描かれます。
だからこそ広く高評価を獲得できたのでしょうし、その点においては、たしかに『フォースの覚醒』はほとんど文句なしの作品だと思います。
しかしながら今振り返ってみると、私がスター・ウォーズに求めていた価値は、フォースの覚醒が提供しているものと少し、違うことに気づきました。
私が求めるもの、それは『めくるめく、見たことのない光景の映像体験』です。
すなわち、
『見たことも無い奇妙な光景に、なんだか判らないけれど魅力的なキャラクターやクリーチャーが、活気にあふれ賑やかに暮らし、戦っている』
そんな光景が次から次へと出てくる体験でした。
よくも悪くもユニークで、カオス。
『こんなの見たことない!』という映像が目白押し。
たとえば、こういうことです。
タトゥイーンの2つの太陽が沈む光景
宇宙のならず者が集う、モス・アイズリーの墓場
信じられない迫力のスターデストロイヤー、それより遥かに巨大なデススター
光の剣でチャンバラし、超能力を使うサムライ
雲海に浮かぶクラウドシティ
変な奴らがお祭り騒ぎ状態の、ジャバの宮殿
挙げるときりがありませんが、これらはユニークで、不思議で、楽しさあふれる光景です。
『ソロとチューイ、3POとR2、ランドとニエン・ナンが、やかましく掛け合いしながら活躍し、意味のわからない言葉で会話しているけど、お互い意味が通じてるっぽい光景』などは最たるものです。
そのゴチャゴチャ加減が、それであるがゆえに、かれらが「生きている」かのように説得力をもたらします。
不自然にきれいにまとまった『作り物』という感じがしないのです。
で、それらの魅力を倍増させるのが、完成度のたかい特撮やデザインワークや造形物という訳です。
そういう私のニーズからした場合、『フォースの覚醒』はちょっと物足りなかったということです。
『フォースの覚醒』の映像体験は、悪く言えば『オリジナル3部作で見たことのある光景の寄せ集め』。
いわば『スター・ウォーズを見て育ったシェフJJが、「スター・ウォーズ好きな奴らはこういうのが好きだろう」と考えて作ったスター・ウォーズ』でしかない。
既存の枠の中では面白いものになっているのですが、めくるめく斬新で奇妙な映像体験をもたらしてくれはしませんでした。
それが、鑑賞後に私の感じたモヤモヤの正体だったのでしょう。
(あまりこの言葉を使いたくありませんが、「センス・オブ・ワンダーに欠けている」という表現が近いでしょう)
オールドファンへの義理立ては『フォースの覚醒』で済んだという見方
一方で、先に紹介した座談会の記事でも言及されていたように、『フォースの覚醒』においてJJは、わざとオリジナル3部作の要素を多く取り入れたとも考えられます。
『フォースの覚醒』は、いわば新シリーズを始める上での『オールドファンへの義理立て』。
『シリーズの最初の作品だけは旧作ファンに寄せて作り、いったん受け入れられればこっちのもの。次のエピソード以降は好き勝手にさせてもらうよ!』という訳です。
これからがJJの本気だとすると、私の求めるような新しい映像体験も『最後のジェダイ』がもたらしてくれるかもしれません。
ともかく、まだまだ謎も多く先の読めない新シリーズ。
故キャリー・フィッシャーをはじめ、オリジナルキャストの多くが存命中に『最後のジェダイ』が完成してくれたことを感謝して、JJの自信作を享受することといたしましょう。
公開直後には観に行けませんが、いずれ感想記事を書くと思います。
<以下、個別の感想点>
・『フォースの覚醒』で目を見張ったのは、ライトセーバーのシーンでした。
ライトセーバーの重厚感・緊張感・実在感が、歴代でも最高だったと思います。
とくに凄いのが、『刃が本当に光っている!』ということ。
オリジナル3部作ではもちろん、プリクエルですら、ライトセーバーの刃は後付けのエフェクトだけであることが大半で、ライトセーバーの光刃が発した光がキャラクターの肌に反射したり、周囲を照らすことは殆どありませんでした。
今回は見事に光っています。これはちょっと感動モノでした。
また、プリクエルの剣戟シーンはアクロバティックな半面、効果音が軽々しく緊張感に欠けるのが不満でしたが、フォースの覚醒のライトセーバーはつばぜり合いの電気的な音の重厚さ、とてつもない切れ味の光線剣で斬り合うスリリングさがあって素晴らしかった。
この点には、おしみなく称賛を送りたいと思います!
・『フォースの覚醒』以前にも、『ジェダイの復讐』のその後を描いた小説やコミックは数多く、それらの中にはファンの間では半ば正史扱いされているものもありました。
フォースの覚醒の鑑賞時にはそのために、
『ベンという存在がいることになって、ジェイセンとジェイナやアナキンは居なかったことになったのか?』
『そもそもユージャン・ヴォング戦争は起こらず、新共和国はエンドアの戦いの後、ずっとファースト・オーダーと戦っているのか?』
…というようなことを考えてしまって、楽しみがスポイルされるのがオタクの悲しいところですね。
W.シャトナー御大の書く小説とかまで、全て正史として整合性を求めるのはナンセンスだというのに。
・ファースト・オーダーに最高指導者スノークと、なぜ皇帝が死に銀河帝国が瓦解したにも関わらず、闇の勢力がこれほどの力を持っているのかなど、全然腑に落ちなくて没入できなかったという事情もありました。
新共和国が成立したなら、スポンサーもいるか判らないのに。
・レイ、フィン、ポーの新キャラクター達は皆いいですね。
レイを演ずるデイジー・リドリーの魅力あふれる演技や衣装が非常に印象深いです。
あと、フィンの『ストームトルーパーの脱走兵』という設定は素晴らしいと思います。
・ウェッジは出てくれないらしい。
まあ仕方ないですね。ハリソン・フォードが出てくれただけで奇跡的なので、ゼイタクは言いますまい。
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