『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の評価を整理して、心の平穏を得ましょう
シリーズ40年目にして投下された、超特大の爆弾映画。
肯定派・否定派に分かれ物議をかもした本作について振り返り、安眠できるようにしたいと思います。
(※2018/2/20に執筆したブログ記事の転載です)
【※I've got a bad feeling about this! (ものすごく長文なので注意!)】
『最後のジェダイ』という爆弾
スター・ウォーズは、その長い歴史の中で物議を醸す『地雷』のようなトピックを多く抱えており、ファン同士の論争を何度も経験してきたシリーズです。
(プリクエル蛇足論とか、特別編とか、ホリデースペシャルとか、ミディ・クロリアンとか…)
しかしそれにしたって、シリーズ誕生40周年を迎えてもなお、これほど物議を醸す作品が出てくるとは驚きです。スター・ウォーズがまだまだコンテンツとして現役だという、横綱の意地だと言えるかも。
さて、『最後のジェダイ』(以下、「TLJ」)は良くも悪くも、従来からのファン達の心を大きく揺さぶることに成功しました。
ある人は「最高だ」と絶賛していた一方で、「過去作すべてを侮辱している」と憤怒した人も見かけました。
ネット界隈の一部、局地的には『TLJ肯定派』と『TLJ否定派』に分かれての舌戦が繰り広げられました。
Twitterなどで見ていますと、泥沼の末に一時はこの『肯定派』と『否定派』がレッテルと化し、議論はしだいに罵倒合戦の様相も呈していたように思います。
とはいえ、すでに公開から2カ月が経ちました。
私もスター・ウォーズファンの端くれとして、TLJには実に色々なことを考えさせられましたが、そろそろ冷静に見つめなおして、心の整理をつけておくべきでしょう。
そこで、議論の中でよくみられた肯定的意見・否定的意見を拾い集めて 私なりに分析してみました。
長文乱筆ではありますが、だれかの心の平穏の一助になれば幸いです。
前提: 異なる階層(レイヤー)の問題をごちゃまぜにしてはならない。
TLJについて語る前に、論点を明らかにせねばなりません。
TLJに対する評価がこれほど真っ二つに分かれた要因は、『ファンたち個人個人が異なる階層(レイヤー)の問題をごちゃまぜにした上で、評価を導き出しているから』だと感じております。
TLJは単独の映画作品であると同時に、シリーズの1作品であり、スター・ウォーズという一つの文化の一端を担う存在であって、論点は多岐にわたります。
異なる論点、異なる尺度からの絶対的評価を単にぶつけあうのは、ナンセンスです。
というわけで、以下の3つの階層に大きく分けて語ってまいります。
個別要素の階層
単独映画作品としての出来・不出来の階層
シリーズとしてのコンセプトや理念の階層
これだけでは抽象的すぎるので、それぞれの階層にどのような論点が含まれるか、書き出してみますね。
個別要素の階層
(個別のシーンや登場人物について。表層。)
▽新世代キャラクターの魅力
▽旧世代キャラクターの扱い
▽登場するメカニック
▽戦闘シーン、アクションシーン
▽セリフ回し
▽音楽
単独映画作品としての出来・不出来の階層
(一本の映画として評価する観点。中層。)
▽ストーリー上の複線とその処理
▽ストーリー上の矛盾
▽背景設定の説明
▽過去作で語られた設定との整合性
▽上映時間やペース配分
シリーズとしてのコンセプトや理念の階層
(シリーズを通じた制作意図や理念まで掘り下げる視点。深層。)
▽3部作の意図
▽スター・ウォーズとは何なのか
▽スター・ウォーズシリーズのフォーマットに則っているか
▽血統主義と『スカイウォーカー家のサーガ』からの脱却
▽フォースとジェダイ、ダークサイドとの関係性
▽そこにSFスピリットはあるか
▽ディズニーの販売戦略
▽監督交代劇、ジョンソン監督に脚本を一任したなどの裏事情
いかがでしょう。
非常に大まかではありますが、おおよそ語られがちな議論のテーマは上記のどこかに入るのではないでしょうか。
そして、それぞれの階層はまったく異なる次元の話であるので、混ぜこぜに語っても仕方がないことがお判り頂けると思います。
以後、本記事ではこの解釈にそって、各階層について考えてまいります。
注意したいのは、便宜上「表層」「深層」などと呼びましたが、スター・ウォーズにとっては3つの階層は等しく重要なファクターであることです。
『表層についてのみ言及している評価は間違いである』、あるいは『より深層について語っている意見のほうがエラい』…ということでは無い、ということです。
各階層に分けて、賛否の意見を考えてみる
では、先ほどの各階層について、よく見られた意見を取り上げ、考えていきましょう。
ここでは賛否は区別しません。
まずは『個別要素の階層』から。
個別要素の階層
▽新世代キャラクターの魅力
▽旧世代キャラクターの扱い
▽登場するメカニック
▽戦闘シーン、アクションシーン
▽音楽
さて、『個別要素の階層』についてよく見る意見としては、こんなところでしょうか。
肯定的、否定的な意見が入り混じっていますが、ほとんどに対してうなずけます。
キャラクターに関しては、前作『フォースの覚醒』で非常に魅力的だったレイやフィンは、拍子抜けするほど魅力を発揮できず、むしろ「カイロ・レンがすべて持って行った」という感じではないでしょうか。
演ずるアダム・ドライバーの演技が素晴らしかったですよね。
一部で反発意見の多いローズに関しては、個人的には悪いキャラとは思いません。また、ポリコレや中国市場への配慮というのは、あてつけだと思います。
(もしくは、そんなことを言っていたらせっかくのSF映画を楽しめなくなります)
ローズが嫌われがちなのは、彼女の行動原理や感情の説明が不足していて、とにかく行動が突飛に見えてしまうからだと思います。
あと、ポーグに関しては、私は非常に嫌悪感を抱きました。
遠景にいる原住生物としては別にいいのですが、意味もなくファルコンに載せて「いるだけマスコット」的に使うのは違うかなと。
あと、これは私だけかもしれませんが、見た目がとにかく不気味に感じてしまいます。
表情がなく、明るい中でも瞳孔が目いっぱい開いている。意志や感情が感じられません。鳥のようだがクチバシがなく、飛行する鳥にしては翼が生えている位置や翼の大きさが不自然なように思えて、すごく収まりの悪さというか『奇怪なキメラ』のように感じます。(かわいいと感じる方、すみません)
旧作からのキャラクターの扱いに関しては、あまり賞賛意見は見られなかった印象です。実際、おいしい出番や貢献の無いキャラが多数でした。
アクバー提督やニエン・ナンはともかく、3POやチューイですらほぼ『いるだけ』。
逆に出番の多かったキャラの中では、ルークの描かれ方はもっとも賛否の分かれるところでしょう。
何しろ彼はオリジナル3部作の生ける伝説。我らがヒーローです。
序盤でレイに見せつけた、やたらとワイルドな姿のショックも大きかったですが、それについては好意的に受け取れば、ルーク本人がわざとそのように演じてみせたのかな、とは思います。
ヨーダがEP5で『おかしな老人』を演じてルークを試そうとしたように、です。
今回のルークはレイの抱く幻想『英雄スカイウォーカー』や『理想のジェダイ像』を崩すため、これ見よがしにあの姿を見せつけたのでは。
(仮にそうだとしても、ヨーダと違ってその後に明確な『種明かし』があるわけではないので、レイも観客も「ただ困惑しただけ」に終わっているんですが。)
そもそも、EP6で見せたようなポジティブで強い精神力をもつ彼が、『弟子の育成失敗に挫けてジェダイに絶望し、責任を放棄して隠棲する』ということ自体も信じがたい話ではありますね。
『父親のなれの果てが悪の権化ダース・ベイダーだった』という重い事実を受け止め、それでも父を信じ続けた彼がああなるとは、誰も予想しなかったでしょう。まさに『ルークはそんなこと言わない』の連続ではありました。
メカに関しては、さほど語るところはありません。
ジョー・ジョンストンのオリジナルデザインの凄さを思い知るばかりです。
今作のメカに斬新さがないのは仕方がないし、逆にいえば旧作に登場したメカと似たような機体が登場してさえいれば、観客がそれなりに満足するのも確かでしょう。
その中にあって、レジスタンスのスキー・スピーダーは舞台設定との相乗効果で、白い大地に赤い軌跡を描く編隊のシーンは印象的な効果を生んでいました。
そういえば、今回のモン・カラマリクルーザーは、目に見える形で『偏光シールド』の存在を描写していました。
何気に、シールドをはっきりと可視化して描写するのはスター・ウォーズのナンバリングタイトルでは初めてではないでしょうか。
オリジナル3部作ではいつも、不可視のシールドの存在をセリフだけで説明していた印象です。(『シールドが破れない!』とか)
続いて、次の階層へまいりましょう。
単独映画作品としての出来・不出来の階層
(一本の映画として評価する観点。中層。)
▽背景説明
▽ストーリー上の伏線とその処理
▽過去作で語られた設定との整合性
▽上映時間やペース配分
『映画作品としての出来・不出来の階層』についてよく見る意見を書き出してみましたが、正直、この階層については称賛の意見は多くなかったように思います。
この階層についての私の見解を述べますと、全体的に「予想を裏切る」ショッキングな展開が多いのは良いのですが、『あとで予想を裏切るためだけの唐突な前フリ』が目立ち、とにかく雑だったという印象です。
『逆を行って、さらに逆をいって、さらに予想を裏切るよ!』という展開の連続。そして、あとで振り返ってみると『結局、何だったのか』という個所が実に多い。
1つの映画にどんでん返しポイントを幾つ作れるか、ギネス記録に挑戦しているのかと思ったくらいです。
その最たる例がレジスタンス逃亡劇で、ホルド将軍がポーに作戦を開示しない点でしょう。これに関しては、本当にまったく意味不明です。
とはいえ『フォースの覚醒』のあと、世界中の何千万人というファンが先の展開を予想し期待を膨らませていた中で、「誰も予想のつかない展開」を提示したのは非常にチャレンジブルだし、凄いことだとは思います。
ただ、『予想を裏切る』と『期待を裏切る』は似て非なるものです。
『予想を裏切る』のは結構ですが、であればこそ、観客は予想したものよりも『より良いもの』、言い換えれば『より高クオリティのもの』を求めるのが必然です。
残念ながら、TLJは1本の映画としてはあまり上質ではない。
すなわち、TLJは『予想を裏切る』ことに成功したものの、その代わりに提示したもののクオリティが低かった、といえます。
その結果、何が起こったか。
ただ単に『ファンの見たいものを見せず、ファンの見たくないものを見せた』ということだけに終始してしまったのではないでしょうか。
重ねて言いますが、『予想を裏切る』ことは悪くないのです。
『予想を裏切る』という点で言うなら、EP5 帝国の逆襲における『私がお前の父だ』なんて、当時としては最大級の『裏切り』でしょう。
あらためて考えたら、あれは本当にショッキングな事実なんです。
ルークは『新たなる希望』でオビ=ワンから自分の出生について聞かされていましたから、『自分は立派なジェダイ騎士の子で、その父の仇が悪のダース・ベイダーなのだ』と思っていた。
なのに、実は父がベイダーそのものだった。
そして、それが事実であるならば、オビ=ワンやヨーダがわざとルークに嘘を教えることで、「親殺し」をさせようとしていたことを意味するのですから!
当時『帝国の逆襲』を見たファンは『ジェダイの復讐』の公開を待つ間、さぞ心を揺さぶられたのではないでしょうか。
(私はそのショックをリアルタイムに経験していない世代なので、想像するしかありません)
結果的に『ジェダイの復讐』 がそれなりに高いクオリティで「帝国の逆襲ショック」に決着をつけたことでファンはいちおう溜飲を下げ、時間が経つにつれてオリジナル3部作を神格化していったのでしょう。
TLJも『帝国の逆襲』と同じポジションの作品だとすれば「EP9しだいで名作に化けるかもしれない」と思えます。
うーん、公平な分析のつもりが、ちょっと辛辣になってしまいました、面目ありません。
ともかくTLJは「一本の映画としての完成度」にかけては、少なからず問題を抱えていると言えるでしょう。
さあ、最後の階層にまいりましょう。
シリーズとしてのコンセプトや理念の階層
(シリーズを通じた制作意図や理念まで掘り下げる視点。深層。)
▽今回の3部作は何を意図して作られているのか
▽スター・ウォーズとは何なのか
▽スター・ウォーズシリーズのフォーマットに則っているか
▽血統主義と『スカイウォーカー家のサーガ』からの脱却
▽フォースとジェダイ、ダークサイドとの関係性
▽そこにSFスピリットはあるか
▽ディズニーの販売戦略
▽監督交代劇、ジョンソン監督に脚本を一任したなどの裏事情
うーん、一つ一つが大きなテーマすぎて、あまりにも難しいです。
本稿では各個の問題にまでは踏み込みませんが、これだけスター・ウォーズにとって根本的な議論を掘り起こしたこと自体、TLJという爆弾の巨大さを物語っていると言えましょう。
そして、TLJという映画にとって最も称賛に値する点はこの階層にあります。
同時に、最も批判されるべき点もこの階層にあるのです。
その議論を象徴するワードとして、『TLJはスター・ウォーズを壊した』と言われています。
TLJはスター・ウォーズの何を壊したのでしょうか。
私なりに考察していきます。
『スター・ウォーズを壊した』とはどういう意味か?
血統主義と『スカイウォーカー家のサーガ』からの脱却
もっともよく語られるのは『血統主義からの脱却』という話題です。
『フォースの覚醒』で残された大きな謎として、「レイの親は誰か」というものがありました。
レイはルークの子ではないか、またはスカイウォーカーの血族か、少なくとも旧作の登場人物の誰かの子孫(特にジェダイ)であろうと予想されていました。
『フォースの才能、ジェダイの素質は遺伝する』という共通認識があったからです。
そもそも、ルークがすぐれた才能を持っていた理由は「アナキンの子」だからだと納得されていましたし、EP1で「血中のミディ・クロリアン値」というフォースの強さの生物学的な指標が示されていたからですね。
そういった経緯のもと、『レイがフォース感応者であれば、レイの親もジェダイか、その家系の人物である』可能性が高いと思われたわけです。
ところが、TLJでついに判明したレイの親は『誰でもない』という結論。
「スター・ウォーズのナンバリングタイトルは、『スカイウォーカー家のサーガ』なのだ!」と考えていた古参ファンを刺激したという訳です。
レイが強いフォースを持つことと、両親がフォースの素質のない人間だということは、設定的には矛盾はありません。
過去作がスカイウォーカー家にまつわるストーリーになっていたのも、別にルーカスがシリーズ当初からそのように明言していたわけではありません。
ですから、それに苦言を呈するのも本来おかしな話なのです。
しかし、結果的に長年積み上げられてきた『 スター・ウォーズのフォーマット』を破ったということは言えます。
そして、このような『フォーマット破り』 をじつに大量にやってのけていることが、TLJがスター・ウォーズを壊したといわれてしまう所以であります。
『古典的叙事詩』という制作姿勢に対する『フォーマット破り』
TLJにおける『スター・ウォーズとしてのフォーマット破り』は、映像や演出の面でも多く見られました。
たとえばこんな点です。
場面転換が少なく、ともなってワイプの使用回数が少ない((「最後のジェダイ」の場面展開におけるワイプは12回 : 映画ニュース - 映画.com))
回想シーンが存在する
劇的な場面を、スローモーションや複数アングルからのリプレイでじっくりと見せる手法を採用している
とくに回想シーンが入ったのには驚きでした。
スピンオフならともかく、従来のナンバリングタイトルでは考えられないことです。
というのも誕生以来、 スター・ウォーズというのは『起こったことを、時系列に沿って淡々と見せていく』という方式が特徴の映画だったからです。
それは『映画の中で「時間を弄る」演出方法をとらない』と言い換えてもいいです。
時間を弄るとはどう意味かというと、こういうことです。
・回想シーンをはさむ(=映像の中の時系列が前後する)
・同じシーンをリプレイで見せる(=同じ時間を繰り返す)
・スローモーションでじっくりと見せる(=時間の流れる速さを変える)
こういう演出を意図的に避けてきたのがスター・ウォーズだったと思います。
「時間を弄らない」というのはつまり、「何気ないシーン」も「決定的瞬間のシーン」も等しく時間の流れ方が変わらないということです。
今までのスター・ウォーズは、大事件が起きたとしてもそれに浸ることなく、あっさりとすませて「次から次へ」進行していく映画でした。
EP4のオビ=ワンの死のシーン、デススターの爆発シーン等も、場面の重要性からすればもっとじっくりと扱っても良いようなものですが、必要以上に誇張されることなく、意外なほどあっさり済ませていたとは思いませんか?
EP5の『私がお前の父だ』やEP6の『ベイダーの転向』のシーンも、改めて見るとかなりサクサクと進行します。
プリクエルでもそれは踏襲されていて、たとえばEP3でのアナキンとオビ=ワンの劇的な決着も、ベイダー誕生のシーンさえ例外ではありません。
この『時間を弄らない』手法は、映画という表現メディアとしてはむしろ原始的な手法であって、むしろ『時間を弄る』手法のほうが後から発明された、複雑で高度なテクニックです。
ここからはただの私見なのですが。
私はルーカスがあえて『時間を弄らない』手法を採用していた理由は、『スター・ウォーズが古典的な「叙事詩」とか「年代記」の性格を持っていたから』ではないかと考えています。
どういうことかと言いますと、いわばスター・ウォーズは『歴史に刻まれた英雄の物語』であって、映画は『その物語を語り継ぐ』立場を意図して制作されており、いわば後世の人間が作った叙事詩のようなものだということです。
たとえるならイーリアスの、トロイア戦争の叙事詩のようなものです。
トロイア戦争を通しての物語を後世の人間が語りつぐには、時系列に従って出来事を追っていくでしょう。それが叙事詩的な構造です。
このことから、スター・ウォーズの『古典的叙事詩』風の性格を読み取ることができます。
そうしないと、歴史を語ることは難しいですからね。
逆に人間ドラマとして映画を作る場合には、キャラクターの心理や活躍の一つ一つに着目するために「時間を弄る」手法は有効です。
では、あえて『古典的叙事詩』のような表現手法を採用してきたことは、スター・ウォーズにどのような効用をもたらしていたのでしょうか。
先ほどのトロイア戦争を例に取ってみると、トロイア戦争自体は歴史的事実を下敷きにしているとは言われていますが、あきらかにフィクションとノンフィクションが混じり合った物語として現代に語り継がれています。
そこに書かれているのは事実起こったことかもしれないし、語り継がれるうちに神話と混じりあったり、誇張されたり脚色されているかもしれない。
幾人もの人間の手によって、その時々でウケるような要素をとりいれつつ、形を変えながら語り継がれているわけですから、時に「できすぎ」な展開があったとしても、物語を語ることには全く影響しないわけです。
ですから、スター・ウォーズに対して『荒唐無稽だ』とか『そんな都合よくいくものか』などと現実視点からツッコミするのは、
トロイア戦争でのアキレウスの獅子奮迅の活躍や「トロイの木馬」の物語に対して『そんなのリアルじゃない』『ご都合主義だ』とツッコミするのと同様、まるで意味がないということになります。
そして、トロイア戦争の叙事詩にとっては、主要な英雄であるアキレウスやオデュッセウス、あるいはヘクトールやパリスですらも、あくまで『歴史をつむいだ登場人物の一人』でしかありません。
同様に、スター・ウォーズにおけるルークやアナキンも『登場人物の一人』だという訳です。
だから、「カメラが特定のキャラクターの視点を代弁する」手法である回想シーンは採用されてこなかったし、
いかに重要な事件が起こっても「歴史物語の1コマにすぎない」以上、時間を弄ったりして過度にクローズアップすることはしてこなかった。
トロイア戦争とスター・ウォーズの違いは、前者が『我々の知る歴史や文化をベースにしている』のに対し、後者が『我々の知らない、大昔の銀河系の歴史や文化(ソースはルーカスの頭の中)をベースにしている』というだけ。
この『古典的な叙事詩の語り手視点』での制作姿勢自体が、スター・ウォーズが凡百のスペースオペラと一線を画している重要なカリスマ要素だったと、私は思います。
子供のころに夢中になってスター・ウォーズを見るとき、単なる作られたドラマではなく、『遠い銀河の歴史の一端を目にしている』という感覚に陥ることが偉大だったのではないでしょうか。
それがオープニングで『遠い昔、はるか彼方の銀河系で…』と前置きしている理由だと思うのですよね。
そして、この制作姿勢を壊さないための『時間を弄らない』という約束が、TLJでは破られてしまったということなのです。
TLJでは全てのキャラクターが『今を生きる、悩める普通の人々』として描かれています。
そのアプローチはスター・ウォーズ的には斬新ですが、一方で『普通の映画ではありふれた、当たり前の手法』でもあります。
こうなると、世に溢れる他のスペースオペラ映画と、何が違うというのか。
シリーズゆかりのキャラクターやメカが出てきて、いつものような音楽が流れれば、それはスター・ウォーズなのでしょうか。
…と、そんなことまで考えなければならなくなるのが、TLJの『爆弾』としての本領というものです。
なんと罪作りな映画でしょうか。
長くなりましたが、要するに言いたいのは、
『TLJは、ルーカスがおそらく意図的に守り続けてきた制作上の姿勢をもフォーマット破りしている』
…ということです。
その結果、TLJはスター・ウォーズ『らしさ』をかなり捨てていることは疑いありません。
『最後のジェダイ』の限りなきチャレンジ魂
繰り返しのようになりますが、フォーマットを破るということは、その代わりに新たな「より良いもの」を求められるということです。
TLJは、観客にいくつもの価値観の改革を迫っており、本作なりの新しいメッセージをかなり前面に押し出してきています。
TLJを肯定する意見の多くは、そのチャレンジ精神とメッセージ性を評価する声が多かったと思います。
『フォースはジェダイだけのものではない』
『人間もフォースも、善と悪に二極化できるものではない』
『ヒーローは特別な存在ではなく、普通の人々が歴史を作る』
『失敗を後進に伝えよ。師匠は弟子に超えられるためにいる』
『自己犠牲ではなく、生き残って希望を伝えることを目指すべき』
こんな感じでしょうか。
これらのメッセージ自体については、私は肯定的です。
今までのスター・ウォーズのストーリーから当然発生すべきテーマだと思います。
しかしながら、これらのテーマを提示したことには、先述の『古典的な叙事詩の語り手目線』であることをやめたことに大きく関係しています。
TLJは叙事詩や神話のような映画ではなく、一般的な映画の手法でキャラクター達のリアルな 心情や葛藤を描いたりする『普通の劇映画』になりました。
普通の劇映画では、血の通った「普通の人々」が、悩み、失敗し、学び、成長していくのです。
すでに確立されているスター・ウォーズの世界に新解釈を持ち込むのも結構ですが、私個人の感想として言わせてもらえば、どうにもTLJは二次創作みたいに感じますね。
『スター・ウォーズを見て育った人が、オタク的妄想や考察をこじらせたうえで、ひねりだした新解釈』に見える。
いうなれば、私たちの同類が作った映画です。
たとえば、
「オズの魔法使」に「ウィキッド」があったり、
「眠れる森の美女」に「マレフィセント」が作られるような、
『王道の物語に「こういう見方もあるかも」と別解釈を示すスピンオフ』 。
フォースの善悪二元論の否定とか、ハイパースペース航法での特攻なんて、こじらせたスター・ウォーズオタクが考えることの典型ではありませんか。
スター・ウォーズとは、そんなに理屈をこねくり回さねば理解できない映画だったでしょうか?
また、TLJが示したメッセージは良いとしても、それを体現する描写が映画の中でうまく機能していたかというと、必ずしもそうとは言えないと思います。
説明不足、粗い描写によるスポイルもありましたし、『後進に失敗を伝える』という点に至っては、『ルークの失敗を糧にする人が誰なのか、その人に失敗がどのように伝わったのか』すらも私には分からずじまいでした。
ただ、TLJではメッセージは問題提議に留まり、結論はまだ出ていない感はあります。
忘れてはいけないのは、これは三部作だということです。
EP9の展開しだいでどのように結論を出していくのか、いくらでも化ける可能性があると思うので、ぜひ期待したいと思います。
最後に
長文にお付き合いくださり、ありがとうございます。
私なりの結論としては、TLJは非常に『意識高い系』の作品なんだと思います。
スター・ウォーズというものを愛してやまないライアン・ジョンソン監督が、自らのフィルターを通して深く深く考えぬき、新しいものを提示した。そんな映画ではないでしょうか。
その情熱とチャレンジ精神は称賛されるべきものだと思います。
ですが、あまりにも意識が高すぎて、世間にはあまりにも奇抜に映ってしまった部分もありました。
新しいものを作るがゆえに、映画の出来としても散漫になってしまった部分があり、粗が目立つのも事実。
一方で、その志を理解し、肯定したファンもいました。
それだけ興味深い、魅力のある映画であるのも事実です。
スター・ウォーズの持っていた作風まで変えてしまった実験的作品だっただけに、それが吉と出るか凶と出るか、今はまだ分かりません。
『普通の映画』になったスター・ウォーズは、今後我々に何を見せてくれるのでしょうか。
我々にできることは、ただ一つ。
『JJ、うまくまとめてくれ!頼んだぞ!』と念じて、エピソード9を心待ちにすることだけでしょう。
私の好きだった『現代の神話』スター・ウォーズが帰ってくる望みは、薄いのかもしれません。
代わりに示してくれるもののクオリティが高いものであることを願います。
本稿が皆さんの、心の平穏の助けになれば幸いです。
最後に、私が本作を鑑賞した映画館で、上映が終わり観客がゾロゾロと退出する中、 私の後ろを歩いていたご婦人ふたりの会話で締めくくりとさせていただきます。
『面白かったね』
『面白かった』
『映像が凄すぎて、私は頭がついていかれなかったわ』
『娯楽映画だもの、深く考えながら観る映画じゃないわよ』
是非、サポートをお願いいたします!