0か100かの解釈と力の加減
よくこの業界で使われる「0か100かの解釈」というのは体の使い方にも反映されるなあ、と感じた。
療育を受けているお子さんで物事の理解や捉えの解釈が極端な場合がある。
こないだも「○○くんが突然大きい声を出すのが嫌」と言っている子がいた。
その事を大きな声を出す子に言った時に「じゃあ僕の事嫌いってことだね」と捉えた。
自分自身を全部否定されたと思ったのだろう。
けど、そうではなくてその子の大きい声を突然出すという行為をやめてほしいと訴えただけだった。
またある子は「○○くん来週お休みなんだね」と言われた時に
「僕がいないとせいせいするんだね」と言った子もいた。うーんそうじゃなくて。
このような解釈は多々ある。
その子の言動についてやめてほしいと言っただけで、全人格を否定されたと思って勘違いする子がいる。
その時は噛み砕いた説明が必要となり、説明すると納得出来たりする。
対人コミュニケーションではここの説明が必要無く、暗黙の了解で習得していく場合が多いのだが、
療育の分野においてはこの噛み砕いた説明が必要なことが多い。
例えば相手に面と向かって「嫌だ」「やめて」と言えない子もいる。
お友達が熱心に話す、全く興味がない芸能人の話を聞き続けなければならないと思っている子がいた。
相手が傷つくかもしれないとおもんぱかりすぎたり、場の雰囲気を壊さないようにするため、自分が我慢すればその場が丸く収まると思っている子がいる。
そういう「アタシその話興味無いから別の話したい」という思いを「言ってもいいんだよ」と職員が言うと「え?そうなの?」と返答していた。
対人コミュニケーションはこのような、決まりの無い抽象的なやりとりが多いのだ。
決まっていないから余計にややこしいし分かりづらい。
うちに来ているような真面目で真っすぐで、真に受ける子は、その事で傷ついたりやりとりを諦める子がいる。
この「0か100かの解釈」というのは、子どもにとって分かりやすいのだと思う。○か×かしか判断基準がないから。
どちらでもよい、が一番分かりづらいのだと思う。
それが体の動きにも反映するのだと思う。「ちょうどいい」が難しい。
ちょうどいい声の大きさ、ちょうどいいボールの投げ方、ちょうどいい呼び止め方、ちょうどいい抱き着き方など…本当にちょうどいいって難しいのだ。これは対人関係にも言える。そkして自己評価にも言える。
遊びの過程、挑戦した過程を評価しづらいのはこのためかと思う。成功したか、失敗したかの方が分かりやすいのだ。
場数を踏みながら、自分の心情・相手の気持ちに気づき、その場のやりとりを振り返って、その子が自分なりに習得していくお手伝いができたらいいのだと思う。
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