なにもないということの圧倒 《夫婦世界一周紀 5日目》
急斜面をフウロとふたりで駆け上がる。
湿気のない乾いた空気。
刺すように強い太陽が体を照りつける。
足元には背丈30センチほどの草が生い茂っていて、ふわりと甘いハーブの香りが漂っていた。
丘の頂上にたどりつき、遠くを見渡した。
うす緑色の大草原が広がっていた。
木が一本も生えていない低地が見渡す限り広がっていた。
まるで絵の中に入り込んだようだ。
僕は確信した。
ここは僕たちの世界一周旅行にとって。
そして僕たちの人生にとって。
とても大切な場所だと。
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「ものづくり夫婦世界一周旅行紀」は、一年前の今日世界を旅してきた僕たち夫婦の旅エッセイです。2018年8月19日から2019年12月9日までの114日間の記録をほぼ毎日連載します。一度購入して頂くと連載を全て読むことができます。マガジンはこちら
ゲルキャンプを目指して
これまでのあらすじ
夫婦世界一周五日目。妻フウロの人生最大の夢であり、日本人が年間100人しか訪れないと言われる超マイナー国トゥヴァでの滞在がスタート。三日目はついに大草原でのゲルキャンプに挑戦します。
すっかりおなじみになった三菱デリカに旅行カバンを詰め込んだ。
まだ日本を出発して一週間と経っていないのに、すでに貫禄が出始めている。
「このリュック重いね」
コンスタンティンが顔を真っ赤にしながら言った。きっとこの先も色んな国で言われるんだろう。
首都クズルから、昨日訪れたビーバースプリングの方へ車を走らせる。
ちょっと曲がって進むと、すぐに未舗装の道が姿を現した。
ところどころに大きな凹みがあり、ジェットコースターのように景色が上下する。
手すりにしっかりつかまっていないと頭をぶつけそうだ。
もこもこした丘が見える。どの丘もこんもりとみどりが生い茂り、青々としていた。
遠くには牛が見えた。
30分もすると車が止まり、リュックが降ろされた。
草が生い茂っているここでは車輪が回らない。
フウロの分はコンスタンティンが持っていき、僕は悪戦苦闘しながら宿に向かった。
坂を降りると、白いぽこぽことした建物がいくつも立っていた。
ゲルだ。
大草原を散歩する
コンスタンティンは二言三言ゲルキャンプのオーナーと会話をし、僕たちに尋ねた。
「明日の朝食を選んで欲しい。バター入りのポリッジとポテトパンケーキ、どっちがいい?」
どっちがではなく、どっちも食べたい。
僕がポテトパンケーキ、フウロがポリッジを選び、じゃあ明日の13時に迎えに行くと告げコンスタンティンは去っていった。
オーナーは英語が話せない。
「エキー」
ドライバーに教えてもらったトゥヴァの挨拶をすると、オーナーはにっこり微笑んだ。
手招きされ、赤い扉のゲルに向かった。
僕たちの今日の宿泊場所だ。
近くで見ると、ゲルは小さかった。
扉が特に小さい。かがんで入る感じだ。
ところが、中に入って驚いた。とても広く感じる。
「やっぱり好きだなあ」
フウロは目を輝かせて、パシャパシャと写真を撮っていた。
構造が気になるらしい。
ゲルの中は暑かったが蒸されて羊毛の香りが広がって、どこかお母さんのようなほっとする空気があった。
「本当にいいところだね」
フウロが言った。
一昨日、昨日とトゥヴァで滞在し、僕たちはいいところだと口々に言い合った。
そのいいねに嘘はない。
でもきっとあの時に言っていた「いい」は新しい知識を得ることへの楽しみだったなと気がついた。
この地に感じる良さは、まるで違うものだった。
得ることの楽しみを超えた、自分が脱皮するような鮮烈な体験。
そんな体験が待っている気がした。
ゲルキャンプのごはん
しばらくすると昼食になった。
食堂もゲルの形をした建物。色がオシャレ。
出てきた食事を見て驚いた。
とんでもない量だ。これを僕たちだけで食べろというのだろうか。
大トマトが3つ。赤カブ3つ。キュウリが5本。
鳥のソテーとポテトにはチーズがたっぷり。
これもディルを添えて食べると最高に美味しかった。ただ量が半端じゃない。
もちろんスープも付いてきた。
こちらもディル盛りだくさんでとっても多い、皿はとっても大きい。
そして、食パンが一人4切れ。
菓子パンがザルいっぱいに置かれていた。
なんとか食べ切ろうと悪戦苦闘していると、オーナーが満面の笑みでお皿を持ってきた。
いじめかと思うほどの量だ。
でも、ご飯はとても美味しかった。
旅の中で食べたご飯の中でTOP3に入る昼食だった。
僕たちは感謝しながら、やけくそで食べ続けた。
突然ゴツリという音がした。
食堂のすぐ脇に牛の大群がいた。さっきまで散歩していた場所だ。
予想を裏切ることだらけで嬉しくなる。
僕たちはゲルで泊まっているのだ。
草原に想う
食べるというよりもお腹に蓄えて、僕たちは仮眠を取ることにした。
世界旅行中、お腹が空いて仕方がないことはあっても、はちきれるほどご飯を食べて苦しむことがあるとは思いもしなかった。
日差しは強かったが、日陰に入ると涼しかった。
ゲルの扉には網戸が付いていて、虫が入らないようになっていた。
あたりからはジャキジャキジャキジャキという聞き慣れない音がそこかしこから聞こえていた。
声の主はバッタだった。
ほとんど日本のトノサマバッタのようだったが、足が赤かった。
バッタの音に異国を感じながらまどろんでいると、やがて空の方からドーン・ドーンと音が降ってきた。
どうやらすぐ近くの丘の上で、誰かが太鼓を叩いているようだ。
「シャーマンかもしれないね」
お腹は相変わらず膨れていたが、歩けないほどではなかった。
それよりもシャーマン見たさに心は躍った。
いざ丘の入り口に立ってみると、意外に高かった。
でも登れないほどではない。道なき道を歩くと、左右に生えている草が香った。
不思議な香りだった。
カモミールとディルを足したような香りが花をくすぐる。
小さな花は満開のようだった。
振り返ると、先ほど通ってきた道が見えた。
一台の車が通り過ぎると、1キロほど砂煙が巻き起こる。
それ以外に人の存在を感じない場所だ。
雲が地面に影を落としているのがくっきりと見える。
ここでは時間の存在がより身近に感じられた。
時計がなくてもじっくりと確実にすぎる時の音が聞こえる。
頂上に着くと同時に、シャーマンの祈祷は終わってしまったが、近くには祈祷の痕があった。
シャーマンが祈祷を行う場所はオーヴァと言うそうだ。
だだっ広い草原の中で祈祷の選ばれる場所には意味がある。
パワースポットとか、気の流れが良いとか、世の中そう言われる場所がある。
ここもその1つなのかもしれない。
荘厳な空気を纏っている場所というのは存在するのだ。
僕もフウロも静かに丘から見える景色を眺めていた。
ここの静かな空気に圧倒されていた。
何もないこの場所に、心がどんどん満たされていく感じがした。
大地を感じてみたくて、僕は寝転んだ。
水気の少ない大地で育つ植物は甲虫のように硬くとげとげしていて、肌に強く刺さった。
この場所に来るために、僕たちは世界一周をしたのかもしれない。
旅立ってまだ5日。
でもそんな想いも馬鹿げてはいないと思えるほどに、この場所が与えてくれるものは大きかった。
神聖な気持ちを携えて、僕たちは下山した。
バッタの羽音が止み、鳥がさえずり、その鳥もやがて去ると、あたりはシンと静まりかえった。
誰のものでもない闇夜がひたひたと迫ってきていた。
薄い幕を隔てた僕たちのゲルの中で、静かに眠りに落ちた。
美しい夜だった。
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ものづくり夫婦世界一周紀
2018年8月19日から12月9日までの114日間。 5大陸11カ国を巡る夫婦世界一周旅行。 その日、何を思っていたかを一年後に毎日連載し…
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