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うすっぺらな街 【短編小説】

【駅のホームで出会った不思議な少年にいざなわれ、『俺』は冬の夜空へ飛び立った。

渋谷のスクランブル交差点、上空。俺は足元の光景に目を奪われていた。
多くの人が紙でできているかのように、厚みが無かった。

気付けば街の雑踏に混じって、ぺらんぺらんという音が辺りに響いていた。かさかさ、紙の擦れ合うような音も聞こえてくる。
その軽い音は、枯葉を踏んで歩く音に似ていた…】


***


俺は、まだ薄暗い駅のベンチで始発を待っていた。
ポケットから取り出したスマホはいつの間にか充電が切れていた。舌打ちをして膝に乗せていたカバンに放り込む。手袋はしていたが指先は凍え、こわばっていた。
辺りは冷蔵庫のような寒さで、俺は背中を丸めた姿勢のまま、永遠に固まってしまいそうだった。


「ねえ、ちょっと来てよ」


俺は驚いて顔をあげた。

「ねえ、聞こえてるんでしょ。返事くらいしたら?」

大きな深くて黒い、ガラス玉のような瞳。

そこには、少年が立っていた。

 

大学は冬休みに入っていた。
バイト先とアパートの往復のみ。他にやることもないし、そもそも何に対しても全くやる気が出ない日々が続いていた。
バイトは二十四時間営業の定食屋で、深夜のシフトだった。夕方まで寝ていて、目が覚めてからもベッドの中で一時間もスマホをいじってしまった。

身体は鉛のように重くマットレスにめり込んでいるような感覚で、指一本すら動かすのが億劫だった。
ようやくベッドから這い出すと、カップ麺を作るためにお湯を沸かした。冷蔵庫の中の冷やご飯もレンジで温め、スマホを見ながらモソモソ食べる。
俺の狭い六畳一間はジャンクな匂いでいっぱいになった。

それからまたベッドにもぐりこんで、スマホでユーチューブを観た。観た、というよりただぼんやりと眺めていた。そのままいつの間にか寝ていたようで、気が付いたらバイトに行く時間になっていた。

二十三時からだったが、ギリギリ、何とか滑り込む。
その日は三連休前の金曜日だったこともあり、飲み屋で出来上がった若者達でかなり混雑していた。
小銭を投げつけるように支払う客や、大声でケンカをし始める客、余裕がなくて荒れていく店内に、もともとやる気のなかった俺はかなりゲンナリしていた。

その日は機械類の点検業者が入る日だったので、午前三時頃から数時間、店を閉めることになっていた。
バイト時間は朝の八時までなので、店を閉めていても、清掃や仕込みなどの作業をしなければならなかった。油にまみれたシンクを磨き上げところで、俺はもうこれ以上、働く気も失せていた。
俺は「頭が痛くて…」と仮病を使うことにした。そう思いついた途端、何だか本当に頭が痛くなってきた。

「まぁ、ゆっくり休めよ」

言葉とは裏腹に渋い顔の店長の前を、小さく会釈しながら通り、俺は店を後にした。


駅直結の店なので始発の時間を狙って出てきたつもりだったが、少し早すぎたようだった。
改札は開いていたので俺は中に入ることができた。
自動改札にカードをかざす。ピーンポーン、と、やけに明るい音が鳴り響いた。普段は雑踏で気にならない音だが、今はむしろ辺りの静けさを際立たせていた。
ホームへの階段を下りると人の姿はなかった。普通、始発前でも客はいるはずだが、なぜだかその日は駅員の姿さえ見当たらなかった。
ベンチに座ると、俺はあまりの寒さにマフラーに顔をうずめ、ポケットに手を突っ込んだ。
 

大学に入れば、何か好きなことが見つかる?東京に出れば?そんなことを言っているヤツもいたが、そんなの嘘だ。遊びたいからテキトーに理由つけてるだけだ。
意気揚々とやりたいことを語ってる友人を見ると、おまえそれで失敗したらどうするんだ?と思ってしまう。失敗して借金まみれになったら?夢だとか言ってらんねえから。
表向きには「すごいね!夢、叶うといいよな」とか、調子の良いことを言ってしまう自分が、心底嫌だった。
俺だって人並みに夢とか考えることもあるけど、なんだかんだ頭の中で立派な事を考えていても、ただそれだけだ。どうせ動かないんだから同じだ。

いつもはスマホで気を紛らわせているが、充電切れなので、俺の思考はぐるぐると回っていた。
深い溜息と共に吐き出した白い息は、マフラーの隙間から立ちのぼり、空気に溶けていった。


「ねえ、ちょっと来てよ」


突然声がした。俺は目を伏せていたので誰かが近くに来たことに気付かず、心底驚いた。びくりと、数センチくらいは跳ねたのではないかと思う。

そこには少年が立っていた。

少年は十歳位だろうか。紺色のダッフルコートを着て、真っ赤なマフラーをしていた。大きな瞳でじっとこちらを見ている。

「ねえ、聞こえてるんでしょ。返事くらいしたら?」
少年は生意気な口ぶりで言った。

「…お前、お母さんは?」

「あーあ、僕を見るとみんな同じこと言うんだよな。んで、その次は『家出か?』でしょ」

少年は少し上を向いた鼻を鳴らし、バカにしたように言った。俺はムッとしたが、まだ真っ暗な駅のホームに保護者もなく平然と立っている少年を見て、少し気味が悪くなってきた。

「とにかく交番行けよ。階段上って改札出たとこにあるから」
俺は、変な子供に関わったことを後悔しつつ言った。

「まったく、これだから大人は…。往生際が悪いよ。来て、って言ったでしょ」

少年は、ポケットに入れていた俺の手首を掴んだ。咄嗟に振りほどこうとしたが、出来なかった。子供とは思えない凄い力だったのだ。

「お、おい、離せよ!」

少年はそのまま、ぐいと俺の腕を引っ張った。俺は抵抗することも出来ずに立ち上がらされた。膝に乗せていたカバンが、ドサリと音をたてて地面に落ちた。

「ちょっと、おい、やめろ…」

少年は俺の手首を掴んだまま、無言でホームを歩き始めた。俺の身長は百七十センチ程だ。痩せているとはいえ、百二、三十センチそこそこの子供に簡単に引っ張られてしまったことに驚いた。しかし抵抗できないのは力のせいだけではないように感じられた。

少年は徐々にスピードを速め、ついには走り出した。長いホームだが、すでに先端は見えていた。辺りには俺のくたびれたスニーカーのボコボコ鳴る音と、少年の革靴のカツカツ鳴る音のみが響いていた。

少年は端の方まで来ても、速度をゆるめなかった。それどころか、止まる気は全く無いようだった。

「おい…よせよ。落ちる…おい…おいっ!!」

その時、少年は俺の手首を更にしっかりと掴むと、ホームの端から高くジャンプした。ふわっという浮遊感がして、次の瞬間俺は落ちると思った。


「わわ…わあっ!!」



しかしそのまま、俺達は空中に浮かんでいたのだった。





足元の街並みはぐんぐん小さくなっていく。俺は少年に手首を引っ張られたまま、冷たい空気を切り裂くように、かなりの速さで上昇していった。
下を見ると線路や建物も現実味が無く、模型のように感じられた。
ほとんど車通りのない道路の信号だけが、意味なく青から黄色、そして赤に変わっているのが見えた。

俺は小学生のとき家族で行った、東京タワーからの眺めを思い出した。しかし都会のベッドタウンであるこの街は、ネオンサインも駅前周辺のみだった。駅前を離れた場所はほとんど真っ暗で、俺は高く昇っていくにつれ、上下すら分からなくなってしまう気がした。

不思議だが、恐いとは思わなかった。ただ、生まれて初めて空を飛んでいる、という高揚感だけだった。そういえば、子供の頃はこんなふうに飛ぶことが夢だったな。

少年はある程度の高さまで上ると、今度は横に飛び始めた。
上空ではヒューヒューという風を切る音しか聞こえず、かえってそれが静けさを際立たせていた。冷たい空気が頬に刺さり、目を開けているのがやっとだった。

「ちょっと急ぐね」

少年はようやく口を開いた。一体どこへ行くんだ、と聞こうと思ったが、口を開けた途端、冷気でむせそうになったのでやめた。
そのとき、飛んでいる俺達の右側から朝日が突然顔を出した。突然というのは、普通ではない速さで昇った、ということである。動画の早回しのように、あっという間に辺りは明るくなってしまった。
急ぐってこういうことか、と、俺は気付いた。

それから十五分位飛び続けただろうか。陽の光は出ていたが上空は相変わらず寒く、体は冷え切り、指先の感覚はほぼ無くなっていた。少年は無言で、前だけを見て飛び続けていた。太陽はもう真上辺りまで来ていた。
 
「ここら辺がいいかな。さあ、降りるよ」

少年は俺の手首を再びぐいと引っ張った。今度は頭から落ちていくような感じだった。
下を見るとたくさんのビルが建つ街が見えてきた。

「渋谷…?」

そこは渋谷だった。大きなオーロラビジョンや、109などの建物が見える。ハチ公口のスクランブル交差点の真上だった。

「お、おい、このまま降りてったら、みんな驚いて、大騒ぎになるぞ!」

俺は咳き込みそうになるのを、なんとかこらえながら言った。しかし少年は何も答えず、俺の手首をつかみながらどんどん行ってしまう。
俺は空から降ってくる人間を見て、渋谷がいつパニックになるのかとヒヤヒヤした。
しかし一向にその様子はなく、降りてゆくにつれ、みんなに俺達は見えていないらしいと分かった。
 
少年は突然スピードをゆるめて体勢を立て直し、俺達は空中に立つような形になった。そしてしばらくゆっくり降りていくと、信号機ほどの高さで、ふいに止まった。

「ほら、見てみなよ」

スクランブル交差点は、相変わらず沢山の人でごった返している。ワイドショーの天気予報とかでよく見る景色…と思ったが、何かが違った。
行き交う人々を見て、俺は驚いた。

うすっぺらなのである。

多くの人が紙でできているかのように、厚みが無かった。皆、ぺらんぺらんと歩いている。

「人が!!一体何で…」

「ああ。あれ、人間の中身が見えてんの。」少年は事もなげに言った。「中身がある人はちゃんと分厚いの。なあんにも無い人は、あんな感じ。この頃ずいぶん増えたな」

よく見てみると、人々の体の薄さには差があることが分かった。
普通に見える人。少し薄くなりかけている人、ほぼ紙のような人、体の一部分だけ、空気が抜けたように薄くなっている人もいた。

「あの人は大学の理事長だよ。あーあ、また更にうすっぺらになっちゃった。それからあの人は最近ちょっと強引に事業を拡げてる会社の社長さん。あの二人、若い頃は中身たっぷりではちきれそうだったのになぁ」
彼らは、体格が良いのは横幅のみで、紙のように薄い体をぺらんぺらんさせながら歩いていた。

「ほら、あそこにいる子達、見てごらん。」

少年が指差した先には、十代位の少女が二人いた。派手な化粧に派手な服装。ビルの脇の地べたに座っていた。
一瞬うすっぺらなのかと思ったが、よく見ると二人とも中身が詰まっていた。
一人の少女は、立ち上がってどこかへ行ってしまった。

「あの子は美容師になるのが夢なんだ。でも、親は知らない。何度も言おうとしたみたいだけど、結局まだ言えてない。親は彼女に無関心だから、何か言いたいことがあることにすら、気付いていないんだ。そもそも彼女に、発言権なんかないんだけど」

「お前、なんでそんなことわかるんだよ」

俺は聞いたが、少年は答えず、しゃべり続けた。

「それから…あ、帰ってきた」

ちょうどそのとき、女の子が何かを手にして、戻ってきた。

「…ああ、あの子はちょっと心配だな。消えてなくなりたいって思ってるみたい。十歳も年上の彼氏から、DVを受けてる」

「え…」

よく見ると、彼女の目の上には、殴られたようなアザがあった。

「ああ、でもまだ中身が詰まってるから大丈夫みたいだな。それにあの二人、今の状況を本気で変えたいと思っているんだ。だから抜け出せるよ、きっと。時間がかかるかもしれないけど」

少女は買ってきた缶のコーンポタージュスープを渡した。
「あちっ!」という声と共に、はじけるような笑い声が、俺たちのところまで聞こえてきた。
二人は真冬の空の下、肩を寄せ合い、何か話しながら笑っていた。


「ああ、あの男の人、めっちゃうすっぺら!」

少年が指さしたのは、スーツを着た、三十代くらいの男性だった。
「上司にはパワハラされて、部下には馬鹿にされて…家でも奥さんに大事にされてないから、かなりストレス、たまってるみたいだねぇ。奥さんが旦那さんを馬鹿にするから、子供達も一緒になって馬鹿にしてるし」

「…なんだか、気の毒だな」
結婚しても家に居場所がないなんて…と、俺は同情した。
男性は歩道の柵に座ると、スマホを取り出し、何やら打ち込み始めた。

「あ、ほら、今日も始めたよ。ちょっとのぞいてみようか」

少年は僕の腕をつかみ、男性の背後まで降りていった。
周りには見えていないことは分かってはいたが、ヒヤヒヤして居心地が悪かった。
スマホの画面には、SNSのコメント欄が開かれていた。

『こんな人間、生きる価値なし』
『あなたみたいな人間は、もう二度と社会には出てこないで下さい』
『オワタwwwww』

男性は、最近スキャンダルで世間を騒がせている有名人のSNSに、手当たり次第に書き込んでいるようだった。

「ほら、最近流行りの、ネットの誹謗中傷ってヤツ。こんな普通な感じの人がやってるんだねぇ」

男性は一心不乱に指を動かしていた。無表情だった。

「何か悪いことをした人なら、攻められて当たり前、むしろ俺が成敗してやった、って感じで、気持ちがいいよね。罪悪感も持たなくて済むし。あ、でもこのSNSのタレントさん、今、誹謗中傷の証拠集めしてるから、この人近々訴えられるかもね。そのときになって、こんなことになるとは思わなかった、とか言うんだろうけど」

男性はコートのポケットにスマホを入れると、ぺらんぺらんと身体を揺らしながら、どこかへ行ってしまった。


少年は俺の手首をひくと再び信号機くらいの高さまで上昇し、スクランブル交差点の上をゆっくり円を描くように飛んだ。
信号が青になると、沢山の人々が四方八方から一斉に動き出す。ぶつかることなくすれ違っていく人の波は、まるで一塊の生き物のようにも見えて不思議だった。

「ああ、ほら。あのおばちゃん」

少年が初老の女性を指さした。今にも取っ手がちぎれそうな、重そうな紙袋を下げている。

「あの人の旦那さん、結構重い病気で入院してるんだけど、近々、退院するんだ」

「それなら良かったじゃないか」
俺が言うと、少年はほらみて、と紙袋の中を指さした。上からのぞき込んでみると、ペットボトルの水が何本も入っているようだった。

「あの水、素晴らしいパワーが宿ってるんだ。毎日飲めばどんな病気も治る。一本千円なんだけど、まとめて買えば五百円くらいになるらしいよ、今キャンペーン中なんだ」

「なんだそれ。胡散臭い話だな」

「でもたくさんの人が不治の病が治りました!って、笑顔で宣伝してるし。病院の先生達は退院させられない、って言ってるんだけど、おばちゃんは、医療は信用できない、このままだと殺されてしまうって思ってるんだ。水を飲めば治るから、って、昔からの友達が勧めてくれたし。その人はとってもいい人で、信用できるしね」

「だんなさんは?退院したいって言ってるのか?」

「最初は嫌がってたけど奥さんに苦労かけてるの、いつも気にしてるからね。退院して薬の代わりに水を飲むことにしたみたい」

俺は驚いた。なんでそうなるんだ?

「水を売ってる人たちのことは知らないけど、病院の先生も、だんなさんも、奥さんも友達も、一人も悪い人がいないから厄介だよね」

「薬、やめちゃって大丈夫なのか…」

俺は、細い、うすっぺらな腕にずっしりと重い紙袋を下げて歩く女性をみて、悲しいのか悔しいのか、よくわからない感情に襲われた。

女性はそのまま、地下鉄の階段へ消えていった。


「あっ、ほら見て。あの人達なんて、めちゃめちゃ楽しそうだよね」

少年が指差した先には、二十代くらいの女性が五人いて、何かに大笑いしながら歩いていた。

「ああ、またいつもの話題だ。同僚のアノ人の悪口は盛り上がるんだよね。彼女たちの結束は、それで保たれているようなもんだし」

女性達は手を叩きながら笑い、興奮気味に早口で喋っていた。
先頭を歩いている女性は、特にうすっぺらだった。

「彼女は、とにかくみんなを支配したいんだ。なんだったっけ、あ、そうそう。マウンティング、ってやつ。ああやって集団を引き連れてるんだから上手くいってるんだね。まわりの女の子たちは本当は彼女のこと嫌ってるんだけど、集団から外されるのが怖いから、みんなで群れてる」

俺から見たら、みんな仲良さそうにしか見えなかった。

「私、またあの子の新しいネタ、仕入れちゃったんだよねー」
「えー?なになに、やばそー!」

女性達の体を透して、道路脇のゴミ溜めのような排水溝が見えた。


次に少年が指したのは、二十代くらいの青年だった。
手足の先のみ中身がパンパンに詰まっていて、あとは薄っぺらだった。

「小さいころから、何でも全部、親に決められてきた。自分で選んだものはほとんど否定されるんだ。学校、友達、趣味、コンビニのお菓子ですらね。彼には失敗する権利すらなかったんだ。
だけど親は愛情をたっぷり注いでると思ってるし、子供を正しく導いてあげなきゃって思ってる。
彼は大人になって急に自立させられて、どうしよう、何も自分では決められないって途方に暮れたんだよね」

失敗する権利。そんなこと考えたこともなかった。

「でも彼はラッキーだったんだ。良い先生や友達に、今では恵まれてる。少しずつ、自分で選べるようになってるところだよ。だからほら、先の方から詰まってきてる」

青年は薄っぺらな身体と不釣り合いな大きな足先で、まっすぐ前を向いて歩いていた。


「ほら見て、そこの男の子。彼は政治家になりたいんだ。偉くなって良い法律をたくさん作る。悪い政治家を追い出してやるって思ってるんだ」

少年が指さしたところに、制服を着た小学生くらいの男の子が、ランドセルをカタカタいわせながら歩いていた。

「ずいぶん単純だな。そんな簡単になれるもんじゃないだろ。どうせ政治家なんて悪いヤツばかりだし…」

「あーあ、これだから大人ってサイアク」
少年は吐き捨てるように言った。
「何でもフクザツにするんだから。どうせ出来っこない、どうせ難しい、どうせドウセ」

俺はムッとした。だが考えてみればその通りかもしれない。
子供は色々なことを簡単に自分にも出来ると思うものだ。しかし、たとえそれが大きな勘違いでも、可能性はそこから生まれるのかもしれない。俺はいつから、どうせ俺には無理、と思い始めたのだろうか。


ふと下を見ると、痩せて、うつむいた青年が歩いていた。コートのポケットに手を突っ込んで、顔色も悪く、無気力そうだった。俺みたいだ、と思った。当然彼はうすっぺらだった。

気付けば街の雑踏に混じって、ぺらんぺらんという音が辺りに響いていた。かさかさ、紙の擦れ合うような音も聞こえてくる。
その軽い音は、枯葉を踏んで歩く音に似ていた。


その時、少年が言った。

「あ、やっぱり。」

「何が?」

「君もほら、こんなになっちゃったよ」

俺は少年の視線の先を見た。

「あ…ああ!?俺の足が!!」


俺の膝から下が、画用紙のように薄くなっていたのだ。痛みなどは全く無かったが、見る間に太ももの方まで薄くなっていき、遂には足全体が紙のようになってしまった。

突然、足元がふわりとすくわれた。上空の風になびいてしまったのである。そして次の瞬間、俺は少年の手を離れ、空中を舞っていた。
今や俺の体は全て薄くなっていた。風に飛ばされているゴミ同然である。なす術もなく、俺はひらひらと浮遊していった。
そのときも不思議なことに、恐いという感覚は無かった。逆に、心地良い程だった。

落ち始めてからも別段パニックになることもなく、今日は雲がほとんど無いなぁ、などと、とりとめの無いことをぼんやり考えていただけだった。
床に書類を落としたときみたいに、左右に揺れながら俺はゆっくり落ちてゆき、そしてふわりと着地した。

俺はそのまま、しばらく意識を失ってしまった。




気付くと俺は、コンクリートの上に大の字になって寝ていた。
起き上がってよく見てみると、そこは低いビルの屋上のようだった。

「戻ってる…」

俺の身体は元に戻っていた。立ち上がり、あちこち動かしてみたが、痛みも何もなく、元通りになっていた。むしろ深く眠れた後のように、身体は軽かった。
すぐそばに、駅で落とした俺のカバンが落ちていた。

屋上の柵越しに下をのぞくと、道路は車や人で溢れていた。そしてその人達もいつもと変わり無く、中身は詰まっていた。俺はしばらく柵にもたれ、街の景色を眺めていた。

ビルは古い建物のようで、周りは真新しい高層ビルに囲まれていた。そのおびただしい数の窓ガラスに反射して、オレンジ色の光が辺りに満ちていた。夕焼けだった。

やがて薄暗くなり、車のライトや店の灯りが目立ち始めた。俺はマフラーをしっかり巻き直し、カバンを拾った。

あの少年の姿は、どこにも無かった。


                     
                               おわり

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