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手紙小品「一筋の光、又はクロワッサン」

 一方的な熱なのかも知れない。

 師走に入り、親戚等から御歳暮が届けられる季節が到来したわけで、先方のお心遣いを頂戴した後は、なるだけ当日の内に、遅くとも翌日には礼状を認めることにしている。決め事というよりも手紙好きなものだからそうするのが自然の倣いなのだ。
 何度でも語ろう、私は手紙が大のつくほど好物である。書くのが好きだ。貰うのも無論好きだ。自分の言葉で、自分の文字で、相手へ想いを届けるならば手紙が最高の手段と信じて疑わないものである。人類史上最高と謳っても良い。そうかと言ってお猿が一筆啓上致したいと望むならどうぞと紙とペンを差し出す積りだ。
 
 貰うことに関しては自分の領分ではないので一先ず横へ置くとして、さて、今年も一年そんな手紙狂いを、時に正直に、時に創造の翼でつらつら書き連ねてきた自分であるけれど、それはもう吃驚するほどに字が上達しなかった。文章じゃあないけれど、書けば書くほど亀の歩みだったとしてもちっとは上手くなるものと思う。あ、少しは上手くなったな。位は思える筈だと思う。だが仮令たとい贔屓目に見ても、冷静な目で見つめ直しても、不味い。全然変わっていない。なんなら自分の名字を書くのが一番下手くそだ。笑ってしまう。
「丁寧に」
 と、本当に心の底から思って文字を認めているにも関わらず、惜しみなく下手な手蹟を披露奉ってしまっているから可笑しくって不可いけない。

 あーあ、字がも少し上手く書ければなあー・・・

 開き直っているのではない。これでも一年積もらせた戴けない文字の数々を省みているのだ。脱字の数々を、訂正せぬまま出しおった己の傲慢を大いに反省して居るのだ。あんまり酷い所業だから、実はこの二か月程は書き損じたら便箋をきちんと新しいのと取り替えて書き直すを実行した。けれどしなかった時もある。それでも三枚涙をのんだ。五輪オリンピックだったら失格の域である。

 だがしかし、何はさておきこれだけは断然主張しておこう。手紙は楽しいのだ。手紙を書くのが楽しくて仕方がないのだ。心が動くと真っ先に手紙を書きたいと思う。あの人に届けよう、あれとこれとーそれからあれも・・・と頭の中で文の構築が始まってしまうのだ。便箋を選ぶのも楽しい。切手は今暫く昔買ったのがあって拘れないが、本来ならば切手を選ぶところも含めて手紙だ。書きたいだけ書こう、執筆の休憩に書こう、人生の息抜きに書こうと思いのままに筆を執るとき、こちらは随分楽しい思いを募らせている。

 けれど、もしかしてその間相手の都合は考慮されていないのではないかしらと不図思う。それはつまり、一方的な熱かも知れない。

 おや、もしかして時には遠慮が必要なのかしら――と殊勝になってみる。これまでにもそう考えて一旦書きたい気持ちを抑え留まった事がある。だけれどほとんど無意味だった。どうしたって書きたくなるのだ。それで矢っ張やっぱり書こうと開き直ってしまうのだ。届けたいだけ届けて、後は受け取り手へ委ねよう。御読み頂ければ本望だ。それだけで私は幸せだ。

 だから幾つになっても好きなだけ手紙を書いていようと思う。あなたの心に誠実に届きますようにと願いながら書いてみようと思う。自分にとり思うまま筆を執ることは、人生に於ける一筋の光、或いはほんのり温まったクロワッサンなのである。

 追伸 文字の散らかった書状がポストへ届いたあなた様にはいつも大変心苦しく弁解の余地も御座いません。返信などお構い下さいませんように。そのうちも少し上達した字を書くでしょうから、その時は笑って読んでやって下さいませ。
                    
                           文・いち

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