見出し画像

掌編「早代さん」


 朝風呂を使うと、その日一日の心持ちが大変良かった。特にまだ日の長い今の季節なら、灯りが要らない。自然光に包まれたタイル張りの、さほど広くも無い小さな世界だけれども、英助はその狭い処も自分好みであると思っていたし、なにしろ妻が、気に入っていた。石鹸を泡立てて、肌に順繰り纏わせる。首筋から肩へ、それから胸元、腋、腕を右と左と、泡が減れば、又石鹸を手に取った。植物由来の香りが、泡の弾ける都度鼻腔をすうと爽やかに抜けてゆく。英助は自分がこうして毎日朝湯を浴びることの出来る環境に或るのを、いつだって嬉しく思うのと同時に、矢張り背徳であろうと考えた。ただ世間へ後ろめたくは思わなかった。とここで、浴室扉へ黒い影が迫った。
「あなた、まだ入っていらっしゃるの?」
 扉が細く開いたと思うと妻が顔を覗かせて、湯船の英助を見るなり微笑してそう尋ねた。
「うん」
 英助は簡易にそう答えると、肩を沈めてざぶんと両手で顔を洗った。相変わらず耳に遠慮が無いから、どうやらまた左の耳の穴へ湯が入ったらしかった。湯上りに頭を傾げてとんとん跳ねていると、屹度きっと妻に注意を受ける。もっと気を付けなければ不可いけ無いわ、そんなに痛め付けちゃ可哀想だわと、困った様に笑いながら云うに決まっているのだ。それで英助が何が可哀想なんだいと聞くと、妻は自分の耳たぶを指で摘まんで、それから英助の耳を指差す。まるで先生であった。英助が歯を見せて笑うと、妻はふいと横を向く。英助はそれが愉快であった。殆ど注意を受けるために耳にまで湯を被っている様なものであった。けれど本式に怒らせては不味いから、気を付けるよと、反省だけはして見せた。

 そろそろ朝日が昇る時分で、浴室内へも換気口から俄かに光が差し出した。幾筋もの眩い線を引いて、浴室のタイルへ当たる頃には柔らかく解けた。英助はすっかり温まった身体を湯船から持ち上げると、ぽたりぽたり滴るのも構わずに浴室を出た。


早代さよさんも一度入ってみると好い。とっても気持ちが良いんだから」
 朝食の膳に付いて、二人向かい合わせで箸を取っている。今朝は黒米の入った御飯に、長葱と豆腐の合わせの味噌汁、卵焼き、それに夕べの牛蒡の金平、小松菜のお浸し、板海苔を八つ切りにしたものが並ぶ。食卓に上る料理は、全て早代が手ずから用意したものである。偶には手を抜いたって構わないのにと英助が云っても、早代は首を横に振って、私料理が好きなのと微笑する。実際早代の腕前は大したもので、いつでも街角で暖簾提灯提げられそうであった。英助の舌も胃袋も、がっちりと掴まれている事は、最早語るに及ばない。早代は湯上りで頬を上気させている夫の顔を見るなり、ふふと笑った。
「だってあなた、朝はこれで忙しいのよ」
 茶碗を左手に、箸で小松菜を解しに掛かっている英助は、瞳で例えばどんなことが或るんだいと尋ねた。鰹節が英助の箸にごっそりくっ付いてしまって取れそうもない。英助は仕方なしに先ず鰹節だけを口へ運んだ。


「そうね―」
 と云って早代は、朝起きてからこの朝食の膳に着くまでの間に、自分が何をしているか、掻い摘んで夫に聞かせて遣った。家中のカーテンを開けて回る。天気が良さそうであれば窓も開ける。新聞を取り込む。米を研いで、湯を沸かしつつ、夕べの食器を食器棚へ片付ける。洗濯機を回す。台所や廊下を柄付きの取り換え式モップで掃除して周る。トイレ掃除を済ませる。朝ご飯の仕上げにかかる。搔い摘んでこの位であった。

 英助はいつの間にか箸を止めて聞き入っていた。自分が起きて、朝風呂を使い、のらりくらり着替えてはお腹が空いたと膳に着くまでの数時間の内に、想像以上の仕事が発生しては片付けられていた事実に、今更ながら驚いている。
「そうか、僕は何だか間抜けだったね」
「あらどうして」
「だって、早代さんが朝からそんなにも懸命に働いているのに、暢気に湯船へ浸かったりなんかしてさ」
 今度は早代が箸を止めた。奇麗な所作で一旦箸置きへ戻すと、心持ち身を乗り出した。
「これが私の仕事なのよ。あなたのお仕事はこれからきちんと始まるじゃないですか。それでおあいこでしょう」
「そうかなあ」
「ふふ、今日は御飯のお代わりしていらっしゃらないから、まだ頭が盆槍ぼんやりしているのね。しっかり食べて、今日も一日元気に働いて来て下さいな」
「うん、そうだね」
 英助は残りの御飯をかき込んで、茶碗を差し出した。黒米の入った御飯は全体的に淡い紫色になる。唯の白米よりも食感が少しもちりとして、柔らかい御飯を好む英助の、一層好みであった。


 英助はひとたび社会へ出れば臆病な人間であった。学校でも職場でも、十に一つも己の意見を立派に云い出せた試しが無い。よし立派でないにしろ、ただの一言でさえ口に上らせる事が出来ない性質の、詰りは気弱であった。英助はそう云う自分を恥じた。いつだって情けなく思いながらも、他が陽気に騒ぐ青く若い時代を淡々と眺めて、或いは全く無視して生きて来た。ところが社会へ出て数年の後、不図ふとした弾みに早代と出会い、世界の見え方が変わった。英助の方が変わったのでない。世界の方がまるで彼に歩み寄った様に見せ方を変えたのだ。英助は随分驚いた。今までずっとくすんでいるとばかり思っていた世界は、ひるがえって鮮やかな色を彼の瞳に映した。重い心の内に潜む物の中にも、果敢に手を伸ばせば、眩しい程の輝き伴う原石があると教えられた。彼の周囲に、ようやくにして新鮮な風が吹いたのだ。まるで真っ新な気持ちがした。案外であった。それでも、英助自身は矢っ張やっぱり憶病なままで良いと思った。静かに暮らす日々の中で、雲が青空運べば平和であった。雀がベランダの柵へ羽休めに寄れば平穏であると思った。


 早代はそう云う英助を素敵だと云って褒めた。優しいと云っては時に恥ずかしそうであった。早代の頬の下に赤い血潮ぱっと咲く度、英助は夢を見た。心の臓跳ねさした。早代は何処までも誠実で、英助はいつまでも無邪気であった。結果として二人は結ばれた。英助は世間にどれだけ馬鹿にされようともう平気であった。蔑ろにされても寂しいとは全く思わなかった。仮令たといどんなに慎ましくとも、早代と二人で暮らしてさえ居れば幸福であると思えた。


 二人の作り上げてゆく時間は穏やかなものであったけれど、英助が彼女の耳元でどれ程優しく囁いても、後ろへ回って「わ!」と驚かそうと思ったって、早代には全く届かなかった。


 早代は、耳が聞こえなかった。生まれつきそうだったのではなくて、十九の歳で雷に打たれて両耳の聴力を失ったのだ。ひと月寝込んだ。それでもまだ悲しかった。けれども早代は、雨も雷も天の恵みだからと嫌いにはならなかった。また広い空の下を歩きたいと勇気を振り絞った。勇気を出した早代は、再びの太陽の下で、電線の雀に目元を和らげる英助と出会った。もう一度雷に打たれたかと思った。忽ちの内に、この人の傍に居たいと願うようになった。持ち前の行動力で必死に彼の視界に侵入試みた。中々骨が折れた。けれども随分楽しかった。其の内英助の方が、おずおずとでも手を伸ばしてくれるようになった。不器用ながら笑い掛けてくれるようになった。早代は飛び上がって喜びたいほど嬉しかった。


 二人が二人の将来を意識し始めた頃、早代は漸く決意固めて、震える指先隠しながら、自身の耳の話を包み隠さず英助に伝えた。彼女の真正面に座った英助は、いつからか必ず向かい合って座るようになっていた英助は、一頻り早代の話を聞いて、うん、うん、と頷いて、最後に固く強張った黒目を彼女と合わせた。そして、
「それでも僕と一緒になってくれますか」と恐る恐る聞いた。
 ずっと怖かったのは自分の方であったのにと早代は思った。笑いながら泣いていた。泣きながら顔上げて、
「よろしくお願い致します」と頭を下げた。
 英助は早代の話を聞いて、高尚な人だと心の底から尊敬した。そしてこの時から、この人の為に生きようと決意した。今よりもっと通じ合えるようになりたくて猛勉強した。だから英助は己の両手で全てを伝えられる様になった。口も、早代には判然はっきり動かした。幸い早代も言葉を失わずに済んでおり、又相手の口元を読むことも出来た。英助の気が逸って手を間違えても、同時に動かす唇から夫の正直を知る事が出来た。


「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 外を歩き始めて暫くは、いつまでも早代の事が気に掛かった。出発までに、自分が出来る事は全部遣れていたろうかと心配が募った。実際には家事は不得手で、早代のが余程上手に切り盛りしているのだから、英助が心砕くには及ばないのだけれど、彼は、彼の世界の中心はいつだって早代にあるので、いつまででも心配していたいのだった。それは余所から見れば惚気と云う。またの名を愛とも云うらしかった。


 二人は自分たちの子を持てる見込みの無い夫婦である。それも承知の上で一緒になった。月に一度は、それで早代も元気がなくなる。寂しそうに笑う。英助にとり元気の無い早代ほど辛い現実は無い。英助は兎に角早代に笑っていて欲しいと願っている。世間なんてどうだっていい、只早代が笑って生きていてくれれば良し、早代の笑顔で世界を埋め尽くせればそれで良いと常々考えている。


 その日出来得る限り早く仕事を片付けた英助は、そろそろ通い慣れた花屋へ足を運んだ。
「いらっしゃいませ。ああ、こんにちは」
 たった一度で顔を憶えられてしまった。何しろ注文が印象的であったのだ。
「こんにちは。早速ですが、ここにある花を全部下さい!」
「奥様へ、ですね」
「はい、僕の大事な妻へ贈りたいのです」
「畏まりました」
 花屋の店員はすっかり心得て、てきぱきと準備に取り掛かった。英助は店の端っこへ立って、満足そうな顔で、赤や黄、青、ピンク、紫と、華やかに色の飛び交うのを見守っていた。
                          

                            おわり

この記事が参加している募集

眠れない夜に

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。