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「ミスターA」

 あなた様のことをお話するのは、身勝手なような気が致しますから、遠慮しようと思っておりました。けれどもやはり、世の中で堂々とあなた様の事に触れ、堂々御礼を述べたいと、こう思い立ったのです。不本意でございましたら申し訳ありません。


 あなた様はいつもエネルギッシュで清潔感の溢れた御方でした。私共は一同揃って、大変可愛がって頂きました。こういう日々が続いてゆくものと誰もが思っておりました。

 いつの間にお聞き及びになられたのか、ある時からあなた様は、大相撲をほんの少しだけかじっていたわたくしに、相撲のお話をして下さるようになりました。熱心にテレビ観戦できていたのは少し前の話で、新聞で結果を追いかけるような日々が続いていたわたくしですが、あなた様と顔を合わせる度に共通の話題の様に、必ずと言って良いほど、大相撲の話を交わせたことは、話下手なわたくしにとり、密かな楽しみとなっておりました。

 いつかテレビの画面越しではなく、この目で直に相撲を見てみたいというのは、わたくしの夢のまた夢でした。なにしろ当時は大相撲が人気を取り戻し、チケット倍率は上がってゆく一方。一般人のわたくしがチケット争奪戦に参加する事など、できようはずがありません。

 そんなある日、あなた様はわたくしに、一枚の封筒を差し出されました。驚きながらも中身を取り出して、私は目を瞠りました。なんと、大相撲の千秋楽のチケットではございませんか。それも上等のお席です。

「行っておいでよ」

 自分は別の席のチケットが取れたから、お友達と行っておいでよと、あなた様はにこやかに笑って仰いました。
 たしかに、いつか生で観戦したいのですと告白致しました。そう、申し上げましたけれど、それがこんなに早く、それも千秋楽という、一番入手困難な日のチケットを、ぽんと、軽やかに、いきなり贈られる等と、誰が想像したでしょう。わたくし含め、周囲の誰もが予想外の事でした。その時のわたくしの喜びようといったら、まるで子ども同然、恥ずかしながら、随分分かりやすく、大喜びしてしまいました。

 その日から指折り数え、待ち設けた千秋楽の大相撲観戦。夢を叶えている時間一分一秒が感動と興奮とに包まれて、わたくしは入場以来、一度も席を立つことができませんでした。土俵に、力士に、場の空気に、無我夢中であったのです。

 当時、いざ取り組まんと執筆中であった長編小説に大相撲が大きく関わっていることは、私一人が知る事実であり、誰に明かしたこともございませんでした。それが、このタイミングで思わぬ貴重な機会を頂いて、私は本当に驚いたのです。そして、これはきっと大きな巡り合わせなのだと思いました。
 与えて頂いた貴重な機会を、わたくしはあますことなく活かして長編小説を書き上げました。

 後日、あなた様はこう仰いました。
「来年は一緒に行こうよ!」

 わたくしももちろん「是非!よろしくお願いします」とお答え致しました。


 春、桜が満開を迎える前に、あなた様は、突然逝ってしまわれました。あまりに唐突で、あまりにもあっさりと――



 今が人生の華とばかり、何事も全力で満喫なされている御様子のあなた様のお姿が、印象的でございました。察するものがおありであられたのか、わたくしには知る由もございません。
 ただ溌溂とした空気と、にこやかな笑みと、周囲への温かいお心遣いが忘れられません。

 今でもわたくしは、扉を開けてあなた様がひょいと顔をお出しになるのではと思う事がございます。何事もなかったかのように、変わらぬ笑顔でお越しになられるのではないかしらと、思ってしまう事があります。

 来年は一緒に行こうよと仰ったのに――

 明日が必ず来るとは限らない。当たり前なんてこの世に存在しない。

「ごめんね」
 と、あなた様なら仰る気が致します。

 どこも痛くはございませんか。苦しくはありませんか。おしゃれなあなた様の事ですから、そちらでも酒豪発揮して、シャンパン何本もお空けになられているでしょうか。


 あなた様の御蔭で書き上げた長編小説ですが、この度無事連載を終了致しました。もしかすると、だからこうして筆を執り、きちんと御礼申し上げる事ができたのかも知れません。

 いずれに致しましても、本当に、心から御礼申し上げます。どれ程感謝し尽くしても足りません。何も御恩返しできないままであったのが残念でなりません。



 ミスターA、ありがとう。そして、さようなら。



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