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「満開の桜を知らない、代わりに弱さを知る」


「切に自愛を祈る」
 ・・・これは夏目先生が人に送った手紙の言葉だ。
 
 頑張って下さいと言うよりも、活躍を願い励ますよりも、御自愛下さいと言うよりも、こんこんと祈るような優しさに満ちた言い回しだと思ったから、早速真似をした。自分が使うには背伸びだったかも知れないけれど、自分が知る以上に頑張っておられる方に、頑張れよりも似合う言葉を届けたいと思ったのだ。ちなみに自分は頑張ってと言われると頑張る人である。

 未だ四月を迎える前だというのに、今年の桜は気が早い。否、桜の所為せいにしてはいかん。地球の寿命を縮めている我々の所為だろう。
 週末の雨が中々盛大で、綻び始めた方々の桜が軒並み花を落としてしまうかと思った。墓参りに行った折には墓石の天辺てっぺんへ薄紅色の花びらが三枚乗っていた。足元にも散らばっていた。傍へ立つのはただ一本のソメイヨシノだ。老齢らしい。まだ満開前に、叩かれて、寂しそうだった。

 週が明けて、近所の桜が沢山目に留まる。傍へ寄ってしみじみ花見をする余裕がないのが今の自分で、遠目に「ああ、咲いたな」と眺めたのみだ。おそらくは、満開だろう。まだ菜の花の黄色に目を奪われていたのに、急き立てられるように桜を披露された気分がしている。あと数日、あと数日でそれでも四月がやってくる。入学式までは持たないだろうか。だがせめて、四月は一緒に迎えたいと、身勝手にも祈っている。

 桜が咲けば誰かが喜ぶ。顔が綻ぶ。年に一度の可憐なお披露目によって、世界に笑顔が溢れるのだ。それならいい。舞って、散って、私が見届けられなくっても、今年もちゃんと咲いて、舞って、散って、それならいいんだ。


 桜を愛でる代わりに、桜餅もまだ見ない代わりに、私はこの頃、自分と云う人間の、脆くて頼りない、弱さをしみじみ実感した。

 一人きりで淡々と生きていれば知らなかった自分の生態が、人と関わる事で浮き彫りにされて、結果的に幾度も驚かされている。それは新鮮な感情でもあり、ちょっと情けなくもあり、だが不思議で、決して褒められたものでもないのだけれど、ゆっくり受け入れて、納得した。

 それは自分の中では「弱さ」だった。持つべきでないと、過去の自分なら切り捨てて来た類のものだった。しかし気付いた時には持っていた。使っていた、という方が正しいか。

「頼る」


 自分の中には存在しないカテゴリだ。もちろん、今まで自分の力だけで生きて来たわけじゃない。数え切れないほどの助力をたまわりながら今日まで生き永らえてきたのだ。気付かずに助けられた事も多々あるだろう。だがしかし、自分から誰かを頼ろうとした記憶は、自覚は、無い。無かった。人を頼ることは、苦手の一種だったのだ。

 それが最近、心の意向に従うように、素直に持ち出された。おそらくは、何度も。弱さを隠さず、人を頼り、それでも苦しくならなかった。こんな日が来るとは思わなかった。せいぜい強がって生きて来た人生だから、こんな日が来るとは全然思っていなかった。

 なんとも不思議で、全く驚きに満ちた現象で、その現実を実感する度、良いのか悪いのか、まだ語れないにしろ、ちょっと、面白いと思ってみる。

 これはつまり、懐柔されたんだな。しかしそろそろ呆れられたかしら、なんて頭を過ぎりもする。なにしろ慣れていない仕業だから。だが次から次と現れるプラスとマイナス入り乱れた感情諸君を、常に正しく捌けるわけもなく、如何いかにも人間らしく右往左往して、誤ったかと俄かに反省をする場合もある。それを繰り返す日々が、今は当事者であっても、いつか創作の糧になればいい、活かされればいいのだと、開き直るのはどうだろう。御都合主義のようだけれど、そう自分によくよく言い聞かせてみる。

 人生の妙味だ。

 さて、それにしても、積もり積もる御恩の数々を、一体どうやってお返ししたら良いだろう。大変悩ましい、嬉しい問題なのである。


 今年も国中に桜が咲いていく。これからもっと咲く。春の御山を存分に染めて、そして散って、薄紅色の絨毯だ。可憐なる花筏だ。きれいで、儚くも、さぞ面白い事だろう。

 こっちの心と、そっちの春と、どちらも目が離せないから、どっちつかずに気を散らす。そんな令和の春を愉快に暮らしている私である。

                              いち

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