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「正方形の織り成す和菓子模様から国境を越える」

ビニールの包装を外した途端に木のかぐわしさが鼻腔にすうと広がって、途端に林の中へ立たされていた。気分が大変に良い。逸る気持ちを抑えながら、手元の木箱の蓋へ手を掛けた―

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ああ、何と云う愛らしさか。これは、和菓子屋さんでとんと巡り合った節分の和菓子の升箱である。この正方形の慎ましい箱の中へ紡がれた和菓子の美しさに暫し見惚れる。形、並び、配色。背景を思い浮かべない訳にいかないではないか。じっと眺める内、心模様は水流のように滑らかに運ばれて、そしていつしか、国境を越えていた。

日頃、自分の頭の中には国境はない。それは人が引いただけであり、地球の大地には凡そ関係のないラインである。世は天然自然であることが素直で優しくて良いのだと、思っている。ところが、自分の中には、「己は日本人である」と云う意識がある。この国で生まれ育ち、この国の言語を話す人間であるとしかと認識している。四季の移ろいを楽しめる、色彩豊かな国に生まれてまあ良かったと思う事屡々しばしばなのである。

畢竟ひっきょう「この国」と、ある地点からある地点までを一括りにして認識している訳である。如何にも矛盾しているではないか。だが、それはもしかすると、親しみ、なのかも知れない。自分は引越しの多い人生を送って来たけれども、ずっとこの国に住んでいる。方言やイントネーションの差異はあっても、日本語圏内で暮らして来た。この国、つまり、「日本」と云うものに、その気候風土にすっかり慣れ親しんで生きて来たのだ。知らず体に馴染んだものに囲まれて、支えられて、心身ともに安穏と呼吸して本日ほんにちまで暮らして来たものだから、とかくこの国の美意識に惹かれてしまうのは、最早止むを得ないことであろうか。

ただ、地球に線引きが無い様に、物作り、人の感情にも線引きは無いものだから、例えばイギリスの、古い物を繰り返し修復しながら大切に使って行く心だとか、シルクロードを辿る青の物語だとか、ゴッドランド島で青草をむ羊の群れだとか、世界の何処かで同じ月を見上げ、同じ空を仰ぐ人の横顔だとか、そう云った物に触れる度、深く共鳴することは幾らでもある。世界は広いと、だが一つなのだと、これほど素晴らしいことは無いと、心から祝福したくなるのだとも、念の為付け加えておく。

それでは、日本の正方形に戻ることにする。

日本は正方形が得意である。実は縦横高さ、寸分たがわずどんぴしゃりの正方形を仕上げる事はむつかしいのであるが、この国の職人たちの気質、根気強さが、それを堂々やってのけるから全く感動する。升、重箱、茶室、それらを作り上げる角材に至るまで、この国はいにしえより正方形の美に魅せられている。そこを掘り返すと論文に挑戦しなければならないだろうから、話を小さな升箱へ、食卓を彩る重箱へ留めようと思う。

この正方形の世界を、一層美しく変化させるものが、仕切り、小鉢、食材の盛り方等であろうか。真正面から、或いは角を正面に置いて、器そのものは簡潔な四角であるがために、工夫次第、アイデア次第で趣は様々に変化へんげする。家庭には家庭ならではの優しさに溢れた形を、店先では職人の美学が際立って光を放つ。今度このたびまんまと心奪われたかの節分の升箱も、そうして我が心をさらりと虜にしたのだ。あんまり豪勢で、内心気が咎めた。けれども、一期一会であるからと、買い求める決意をしてわが家に連れ帰ったのだ。大仰なようだが、毎年百円の豆を買って鬼退治する身分からすれば、凡そ千円の升箱は贅沢以外の何物でもないと御理解頂ければ幸いである。因みにこの升の中身を外へ向かって容赦なく「鬼は外!」等と云って無邪気に投げつける積りはさらさらない。当然胃袋へ全て納める所存である。

と云う訳で、改めて和菓子を眺め、その愛らしい見た目を十分に堪能した自分は、一枚の紙に視線を運んだ。

年中お世話になっている仙太郎さんは、時々ちょっとした紙に熱い気概したためてさらり品物と同封してくれる。読んで、私は大いに共感を覚えた。まさに和菓子職人の心意気を受け取った。その用紙は文末へ、参考までに添付しておこうと思う。御興味お有りの方がいらっしゃれば、御一読あれ。

さて、愈々いよいよ実食である。手ずからいそいそと煎茶を淹れ、待ち侘びた手を伸ばした。原材料は至ってシンプル。添加物などが使われていない処。それがとても嬉しい。升の側面も御覧頂きたく、これも文末に写真を添えておく。折角の縁起物であるから、共に福を味わいたいのである。

「頂きます」

これを食べればもう百人力だ。節分に乗じて贅沢を有難う。噛み締める程に、甘味は柔らかく、素材の旨味はじっくりと、舌の上へ広がって行く。ああ、美味い。

と、味わえたのは立春の事である。今更ここで改めて申し上げるに及ばない私事わたくしごとであるけれど、節分当日はカメラが壊れた。当日封を開けようと仏壇へお供えしていた升箱はまだ未撮影だったのだ。どうしても撮影しておきたかった為に、一日開封を先伸ばしていたのだが、こうして無事日の目を見ること叶って、我が心持ちも随分気楽になった。そして、僅かの時間ではあったけれど、心の目と、五感とを、いつも以上に大切に出来た事は、一つ学びであった。

それでは、奇麗さっぱり厄を払った自分は、この後も縦横無尽に好奇心の瞳を注いで、真面目に、誠実に歩んで行こうと思うから、どうかどうか、これ以上物が壊れぬようにと天に向かって手を合わせてみる。


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おまけに、節分当日の夜、カメラが壊れた筆者を不憫に思った家族が、自分のスマートフォンで筆者が焼いた鰯を撮ってくれたからここへも載せておこう。厄除けの積りである。

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それでは、正方形の織り成す和菓子模様から国境を越え、再び小さな升の中へと帰りついたこの語りも、そろそろ筆を置く事にしよう。あなたの心にも、福が訪れている事を切に願うものである。

                            いち

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。