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掌編「おにぎり」


「おにぎりなら、食べられそう」
 弱々しくベッドへ横になったままそう答えると、分かったと云って台所へ引き返した。階段を降りて行く足音聞きながら、いつもの何倍も、何十倍も優しさが沁みて来て、目頭が熱くなった。多分、全部、熱の所為だから。


 迂闊だった。すっかり秋も深まって、夜眠る前には窓を閉めておかなくちゃ駄目だったのに、昼間は夏の余韻がまだあるからと油断して、部屋の窓を全開にしたまま眠ってしまった。それでもせめて掛け布団が在れば良かったんだけど、生憎とこちらもまだ夏仕様でタオルケット一枚きり。
「寒っ!」
 と云いながら起きた時には既に手遅れな、火照ったおでこと詰まった鼻と、不愉快な頭痛に襲われていた。軟弱と指差されても仕方ないけど、今はやめて欲しい。市販の風邪薬はもう効かないし、心もとことん弱っているから。冷蔵庫にポカリも無い。桃の缶詰も無い。そんなもの普段気にも留めないくせに、都合のいい時だけ無いじゃんとか云って勝手に怒っているのだ。朝から鼻をずびずび云わせながら壁伝いに一階のトイレへ行き、体温計で熱を計って、三十七度六分で、ちょっと予想より下だけど、高熱よりも余計にだるく感じる高さで、とにかく自分は今風邪なんだと認識して、又這う這うの体ほうほうのていでベッドへ帰って来た。


 同居の家族が揃って二泊三日の温泉旅行へ出掛けたのが昨日の事で、その間自分はこの家に一人きり、自由に羽を伸ばせると、心密かにあれとこれと、計画して、有休まで一個使って、三連休にしたのに、全部パー。
 あー馬鹿みたい。自分で自分を罵ったら何だか急に悲しくなってきた。いかん、泣けてくる。タオルケットを頭から被る。
 外は明るい。部屋の中もまあ明るい。光を遮ったタオルケットの内側も闇では無い。暗いのは自分の心だけ。なんて、また妙な詩人になって余計にブルーになっていく。
「頭痛いよお」
「鼻が詰まって苦しいよお」
「食欲ないけどお腹空いたよお」

 年甲斐もなく愚痴を零していると、枕元で突然スマホが鳴り始めて、心臓がひっくり返りそうになった。相当な勢いでばくばく云わせながら、慌てて手に取り確認すると、一人暮らししている姉からの電話だった。そう云えばこの二番目の姉も仕事の都合で今回の温泉はパスするとか言っていたっけとぼんやり思い出す。スライドして、取り敢えず出る。


もじもじ、俺でずもしもし、おれです
「何あんた、鼻声じゃん」
「風邪引きまじだひきました
「ああそうなんだ」
「・・・」
「何よ」
「・・・」
「切るわよ」
ずみばぜん、家に誰もいまでんすみません、いえにだれもいません
「温泉でしょう」
ばい。助けで下ざいはい。たすけてください
「ええ、そんなに酷いの」
お腹空いで死にぞうなんでずおなかすいてしにそうなんですポガリもあじまじぇん。泣ぎぞうでしゅポカリもありません。なきそうです
「はいはい、大袈裟ねあんた。たかが風邪でしょ。寝てりゃ治るでしょうに」
「無理・・でしゅ」


 受話器の奥からそろそろ堪え切れなくなったらしい笑い声が聞こえてくる。悔しいが鼻水が全然止まらない上に体が段々熱を持って、何だか全部後回しにしたい気分であった。馬鹿にされてもいいし、鼻声をどれだけ笑って貰っても構わないから、手を貸して欲しかった。
「分かったわよ。ちょっと待ってて。今家の前に居るんだけど、そこのドラッグストア行ってもう一回来るから。鍵もあるし、あんた取り敢えず寝てなさいよ」
「はい、ありがとごじゃいましゅありがとうございます


 通話が切れるなりスマホを投げだして、再びタオルケットへくるまった。自分の匂いって案外安心する。これがアントニオ猪木の匂いとかして来たらちょっと困惑しそうだ。今多分闘魂はらない。まあ、自分に困惑されても猪木も困るだろうけど。そんなどうでも良い思考が頭の中に出現するのもきっと風邪の諸症状だろうと思う。惨めだなと又無意味に物悲しい。

 この時突然芥川の蜘蛛の糸を思い出した。何の脈絡もないけれど、只今の姉の電話が、自分には「風邪」と云う地獄の巣窟へ垂らされた、一本の神々こうごうしい、救いの糸の様な気がしたんだ。あっちは志半ばでぷつり切れてしまうけれど、こっちは大丈夫なはずだ。これで死なないで済む。無性に有難くて、まだ何物もほどこされていない内から、姉の御本尊脳裏に描き出して拝み倒していた。その内少しうとうととした。


 目が覚めて、一瞬間何も分からなくなった。明るい室内を目玉だけで見回して、異様に重たい頭と体に気が付いて、瞬く間に自分の体がたった今風邪と云う病魔に襲われている現実を思い出した。

 そうだった。とがっくり思ったのも束の間、階下へ人の気配を感じるではないか。泥棒かしら。玄関の鍵、かけてなかったっけ。と不安が兆した直後に電話の件を思い出した。スマホの時刻を見ればあれから三十分程しか経っていなかった。何時間も眠った気がしたから、少し得した気がした。のろのろ起き上がって、早速ティッシュに手を伸ばす。鼻をかんで僅かに嗅覚が戻った瞬間、知ってる匂いがした。なんだっけこれ。そうだ、ご飯だ。ご飯の炊ける匂いがする。姉は台所へ居るらしい。顔出そうか、一応。と、思いながらまた布団へ倒れ込んだ。全然力が入らない。こんなにも無力なのか。こんなにも自分は軟弱なのか!と心の中だけは勇ましい。見た目はきっと、一夜干しされたいかと似た様なものだろうと思う。こっちは噛み締めても味気ない身だけど。

「うう」
 無駄に唸りたくなる。全力で重力に押されつつ、熱を持った身体に成す術なしと諦めの腕を放り投げていると、階段踏みつける足音が近付いて来る。そしてがちゃんと扉が開けられた。中へは入らないで、顔だけちらりと覗かせた、それはよく知った顔の、二番目の姉であった。元気を漢字で書いて掲げているかの様な快活な顔色に、羨みうらやみの小鬼が出て来そうになって暫し困る。

「起きた?」
「うん」
「お腹空いてるんでしょう、何なら食べられそうなの?」
 この問い掛けを、僕はずっと待っていたのだ。こう聞いてくれる人を、僕に労わりの一言掛けてくれる聖母を、僕は切望していたのだ。起き抜けに嗅いだ匂いの御蔭で空腹はピークに達している。気持ちは十分勢いづいているが、実際には病に伏した己なので、元気は無論出て来ない。弱々しく、
おじぎりだら、食べられしょうおにぎりなら、たべられそう


 おにぎりが食べたい。塩の効いたおにぎりが物凄く食べたかった。塩味さえ十分に味わえないかも知れないけれど、とにかくあったかいご飯の塩おにぎりを、体中が欲していた。
「わかった」
 姉はそう答えると、すっと部屋に身を入れ僕の枕元へポカリのペットボトルをとんと置き、階下へ降りて行った。身のこなしが忍者の様だと思った。姉は自炊をする人だ。ご飯も、コンビニおにぎりよりも自分でむすんで職場へ持参すると云っていた。弁当にする時間が無い日でも、おにぎりだけは持って行くと語っていた。
 つまり姉の手は、おにぎりのスペシャリストなのだ。週に何個握っているか知らないけど、きっと塩もいい塩梅にしてくれる筈だ。しかもである、白米は、たった今、炊けているのだ。僕はもう、ひたすら真白の塩おむすびが待ち遠しかった。食欲が無い様なある様な気がしていたけれど、ただお腹が空いている。腹の虫もその通り!と鳴っている。

 三角がいいな。俵よりも、三角が良いな。昔遠足で、小学校の遠足で母さんが作ってくれた弁当に入ってた様な、三角のおむすびが食べたいな。我ながら子ども染みた事を考えていると俯瞰しながらも、頭の中はおにぎり食べたい欲だけでいっぱいであった。

 海苔。


 この時不意に海苔の存在を思い出した。海苔は付くだろうか。巻かれるだろうか。ああ、姉ちゃんは今ここに住んでいないから、海苔の場所が分かんないかも知れないな。まあ自分も知らんけど。海苔はどっちでもいいや。むすびさえ食べられれば、本当に―
 いつもの何倍も、何十倍も人の優しさが沁みて来て、目頭が熱くなった。もっと人に優しい自分であろうとか、粛々しゅくしゅくかえりみていた。多分、全部、熱の所為だから。

 それから、お盆を手にした姉が再び二階へ上がって来た。お皿には勿論おむすびである。
「いただきます」
 ベッドの上へ起き上がった僕は、海苔で挟まれた三角のおむすびを一つ手に取ると、がぶりと口一杯に頬張った。中はまだ熱くて、はふはふと息をする。塩味は少し遠くに感じる。でも、優しい味がする。
「旨い、旨いです」
「素手で握ってますからね」

 手の平へ塩を付けて、熱いのを我慢して両手で結ぶ三角おにぎりは、素手の魔法がかかる。素朴ながらどんな高級料理にも負けない優しさが詰まっている。僕は一個をぺろりと平らげた。
「ほんとに美味しい」
 と続けて二個目へも手を伸ばした。姉はその様子を満足気に見て、お大事に、と部屋を出て行った。


 風邪なんて、もう治った様な気がした。

                     

                           おしまい



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