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「KIGEN」第三十八回
「暑くないかな」
急に話しかけられていちごうは驚きつつも明快に、いいえ、何ともと答えた。そしてここがチャンスとやっと口を開いた。
「犬飼教授、私は今どちらへ向かっているのでしょうか。当初のお話ですといつもの病院で緊急検査が入ったから急ぎ向かうとの事でしたが」
交通量が減り、片側が一車線の道路へ入っても、犬飼教授は肩から上を固くして前を見据えたまま、ハンドルを握る手も一瞬たりとも緩む事がない。いちごうの質問にも直ぐには答えが出て来ない。暫しの沈黙の後、やっと教授が口を開いた。
「ハンドルを握るのなんて久し振りでね――自分では滅多と運転しなくなったからね。だからいちごう君、すまないが私には話し掛けないでくれると嬉しいな。事故を起こしたくないからね」
「すみません、失礼を致しました。お口、閉じておきます。あ、でも教授一つだけ。私まわし一丁なんですけど――・・」
「寒いかい?」
「いいえ」
「―そう」
「―」
「・・・ごめんね」
「いいえ」
いちごうは自分の置かれつつある状況を、頭の中で考えていた。庭先で一人の時に声を掛けられた事、緊急を理由に考える猶予を与えられなかった事、どうやら現状を説明しては貰えない事―どれを取っても映画で見る誘拐犯と攫われる側のシチュエーションにそっくりであると思う。ただ、いちごうは手足の自由が利く環境にあり、相手は顔見知りの初老の男性一人である。いちごうはあらゆる展開を予想して、それでも大人しく座っていた。
見様見真似で着けたまわしが緩みそうで、外れたところで破廉恥な姿を披露する恐れも無いのだけど一応締め直さなくてはと思い、運転の気を散らせない様気を配りつつごそごそやっていると、頭部のある一角がアナログ電波を受信した。奏が取り付けた、彼を形作る機材の中でも唯一の古いシステムだった。電子音が微かに耳の奥へ響き、若干のノイズの中に、間もなく呼び出しの声が加わる。
「ハローハロー、こちら奏、こちら奏。いちごうは声を出さずに応答願います。咳払いどうぞ」
いちごうは思わず笑いそうになるのを堪えて、こほんと澄ました咳払いをした。
渉たっての希望で取り付けたアマチュア無線が思わぬ場面で役に立った。
「繋がりました。いちごうは無事のようです。咳払いの応答がありました」
奏を取り囲むようにして見守る一同はそう聞いて一先ず胸を撫で下ろした。いちごうが行方不明になってからずっと近所を探し回っている渉へ、矢留世がスマホで連絡を入れる。
「続けます」
そう言うと奏はいちごうとの通信へ集中した。
「いちごう、今から僕は三つの要件を言うよ。何度も咳払いしては周囲に不審に思われるかも知れない。まとめて尋ねるから、三つ目のみ応答して下さい。それでは尋ねます。一つ目、先ずは無事ですか?この無線が繋がった事で無事を信じたいと思います。二つ目、君のGPSが妨害を受けてて機能していません。僕は車だと予想します。可能なら傍にある窓を開けて欲しいです。三つ目、一緒に居るのは犬飼教授ですか?・・・以上です」
あらゆる事態を想定した奏はいちごうの身を案じて、声を出さないで済むよう質問を工夫した。一方で受け手のいちごうは自分の身が置かれた状況と危険性をある程度理解しているつもりだった。彼は一つ深呼吸すると、窓の外へ視線を運んだ。きれいな夏山が連なっている。無意識に助手席のヘッドレストを掴んでいた。
「犬飼教授、ここは随分田舎道ですね。車で走るには細い気がします」
「そうだね・・どんな都会に住んでいても、少し街を逸れればみんな同じ大地の上だよ・・・しかしいちごう君、話しかけないでって言ったのに」
「ごめんなさい教授、あまりに景色が奇麗で、うっかり声を掛けてしまいました。もう静かにしています。でも、もし宜しければ私はもっとしっかり外の景色が見たいので、後ろの窓を開けて下さいませんか」
「暑いよ?」
「丁度良さそうです」
「そうかい」
教授は窓の開閉スイッチを手探りで操作して、いちごうの座る後部座席の窓を両側とも十センチ程度開けて遣った。
「いちごうは犬飼教授と一緒です。たった今車の窓が開けられました。もうじきGPSも機能するはずです。二人の現在地が判明したら直ぐに追いかけましょう」
「でかしたよ奏くん!本当にありがとう」
「いいえ、父さんの御蔭ですから」
最新技術を駆使し、人工知能を搭載するロボットにアマチュア無線なんて必要かなあ。渉の提案に奏はそう言って首を傾げた。だが渉は、デジタルへの依存が大きい世界だからこそアナログが必要なんだと、この時ばかりは息子が承知する迄己の意見を引っ込めなかった。奏はいちごうの総重量を計算し直さなければならなくなったが、父親の熱弁に負けて搭載を決めたのだった。今こうして大きな役目を果たしたことで、父の謂わんとしたことが実感を伴って理解出来たように思えた。
間もなくいちごうのGPSが復活し、奏のパソコンへ位置情報が現れた。その点の移動速度から、二人が今も車で移動中であると確認された。チームは早速動き出した。
「しかし、犬飼教授の目的はなんなんだ?」
追跡組として矢留世の車へ乗り込んだ三河と奏は、位置情報を映し出すスマートフォンの画面を気に掛けながら、教授の目的を探っていた。
第三十九回に続くー
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