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「KIGEN」第五十回




 親方から部屋を引き継ぎ垣内部屋の垣内親方を襲名する。そうと決まった矢先、垣内親方が体調を崩して入院した為、襲名を暫し遅らせて貰えるよう相撲協会に掛け合って、源三郎は一時的に年寄を横綱時代の名前、大航海で襲名していた。幸い垣内親方は快方に向かい、退院の目途が立った為、源三郎は来たる部屋の引き継ぎに向けて、挨拶がてら各部屋を一人で訪問して回っていた。


 その日もある相撲部屋を訪れていた。親方の元へ辿り着く前に、一人の力士が付け人を従えて向こうから歩いて来た。幕内で活躍する力士の一人だと直ぐに分かった。お互いもちろん顔見知りであるから、気安い調子で挨拶を交わした。それから相手は付け人を待たせておいて、源三郎に近寄った。訝しむ源三郎の耳の傍へ顔近付けたと思うと、源三郎が嫌がって離れる前に耳打ちをした。

「玄海って――」

 玄海は源三郎の弟弟子の四股名だ。相手は玄海の出自について、噂話を鵜呑みにした様な口を利いて来た。それは本当かと真相を知りたがる素振りを見せて、その実噂の浮遊するのを楽しんでいるように見えた。源三郎は忽ち噂を否定した。同時に幕内で三役の地位にある相手がそんな詰まらない話を聞いて人を馬鹿にしている行為を目の当たりして、思わず眉間へ皺を寄せた。あからさまに嫌悪する源三郎の態度に、相手も気圧を低くして不機嫌になった。その上あたかも下位力士へするように源三郎を上から下まで見物して、彼を挑発した。その態度はどう見ても、ほんの一月前まで自分の上位に君臨していた横綱へ対するものではなかったし、敬意など微塵も感じられなかった。

 だが源三郎は挑発には乗らなかった。己の立場をわきまえて、黙って相手を見詰め、事の鎮静化を図ろうとした。ところがその余裕の滲む態度が気に入らなかったのか、相手は尚も弟弟子を馬鹿にする発言を繰り返した。

 自分の事ならば堪えられた。ところが弟弟子の、しかも相撲とは何の関わりもない個人的且つ繊細な部分を好き勝手言われ続ける事がそろそろ堪え切れなかった。相手も弟弟子の玄海も現役力士であり、番付を見れば現在は相手が断然上だ。もしもここで大人しく下がったまま別れた場合、自分の与り知らない処で弟弟子が更に不名誉な戯言を浴びせられるかも知れない。言われっぱなしは部屋の沽券にも係わる。弟弟子の名誉と尊厳を守りたい。その為ならば自分がここで少し断固とした強さを見せておかねばならない。

 源三郎はこう考えて、相手の肩を掴み、もう一度はっきり訂正しておこうと思い腕を伸ばした。


 二人の不穏な気配を感じ取った付け人の一人が親方を呼びに走ったのが少し前のことだった。急ぎ駆け付けた親方の目に、源三郎が腕を伸ばす姿が映った。殴るのか!そう思い込んだ親方は、二人の間へ割り込むように飛び込んでいった。


 突然目の前に頭が一つ増えて、しかし慌てた源三郎は腕の勢いを制御できなかった。どん。と鈍い音が辺りに響いた。源三郎の分厚い手のひらが親方の頬に当たった音だった。

 はっと目を見開いた二人は後ろへ一歩下がった。片方はみるみる頬を歪ませて肩を強張らせ、もう片方は目の前の光景を理解するなり片頬を持ち上げて歪んだ笑みを見せた。


 源三郎は誠心誠意謝罪した。親方もそれが故意によるものでないことは理解しており、穏便に済ませようとした。ところが相手の力士は違った。うちの親方を殴ったと主張して譲らなかった。親方が諭しても聞き入れず、とうとう理事会の耳へ入ってしまった。それと同時にマスコミへも情報が流れていた。どちらも相手力士の仕業に違いないと思ったが、源三郎は実際に手を出した事実がある為動けなかった。世間から惜しまれつつ引退したばかりの元横綱の暴力事件として、マスコミは挙ってニュースに仕立てた。当然のように中身は真偽不明が多かった。

 源三郎は委員会にかけられた。そこで洗いざらい報告した事で元々のいざこざ相手であった力士も呼び出される事になったが、源三郎は自分が相手の肩を掴もうとして、結果的に親方の頬をぶった事も正直に告げた。念のため親方にも話を聞いて、三者の言い分が出揃った上で、殴ったかどうかの真相よりも手を出したと云う事自体が問題とされた。それがたった今から親方という指導者の立場で、相撲界の模範となるべき存在であった為に、尚の事厳正な処分が必要だった。協会はそれでも人気力士であった大航海には相撲界に残っていて欲しいとの希望があり、部屋の年寄の襲名を遅らせて一年の謹慎処分を言い渡す判断をした。

 だが源三郎は垣内親方の襲名を辞退して、角界を去る意を協会へ届け出た。ぶたれた親方は公平な審判を求めて自分の弟子にも処分を課すよう相撲協会に求め、源三郎に突っかかった力士は謹慎処分を受けた。だが彼もまた角界に見切りをつけて去った。大関とりを何度か経験しながらも機運を掴めなかった力士であり、その実燻っていたのかも知れない。彼が一体どういうつもりであの日源三郎を挑発したのか、その内情は誰にも知る由が無かった。


 角界から離れ、自然の中でひっそりと暮らし始めた源三郎のプライベートな話が週刊誌へ報じられたのは、騒動がようやく収まってきた頃だった。見出しは隠し子がいた等と吹聴したものだったが、蓋を開ければ一つの家族の話だった。


 所帯を持つことを期待されていた源三郎であったが、既に二十五の時子どもを一人もうけていた。当時はまだ番付も低く、内縁の妻の子として世間へ公表しなかったのだ。妻とは横綱までたどり着き、いつか親方になった暁には入籍しようと決めていた。それが直前で泡と消え、しかし渋る源三郎を押して、二人は婚姻届けを出した。描いた夢とは違う世界となったが、家族は穏やかな生活を送っている。そんな記事だった。暴力沙汰の真相が明らかになるにつれ、世間には源三郎に同情する向きが強まっていたこともあり、これは大きなニュースにはならなかった。


 彼らは真実幸福な時間を過ごし、それが続くことを願っていた。だが娘が二十一の時妻が他界して、そこからは父一人子一人の暮らしを余儀なくされた。そして、その愛娘も他国の戦禍に奪われた―

 これが二十四年前から現在に向かう迄のおじいの話である。


第五十一回に続くー


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