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「KIGEN」第四十二回



「カエデさんは菩薩のような眼差しで、私のしくじりさえも優しく見守って下さいます。でもおじいは厳しいです。まるで鬼の形相。夢にまで出て来そうです」

 いちごうは何をするにも真っ向から取り組んだ。畑に獣よけのネットを張る為の杭を打つよう指示された時、ここへ真っ直ぐねとカエデさんが腕を伸ばして示してくれた。いちごうははいと頷き早速杭をえい、えいと等間隔に打っていった。カエデさんが気付いた時には、杭は縦一列に三十本、畑を過ぎて遠く山の麓付近にまで届く勢だった。おじいはいちごうを一喝した。他にも鍬の入れ方がなってない。畝が曲がっている。草取りが中途半端だ根こそぎいけ。等と最初から教えてはくれないのに、間違うとぴしゃりと指摘してやり直しを命ずる。いちごうはそのたびに体で覚えた。カエデさんとアイリーが呼ぶのへ倣って源三郎をおじいと呼ぶようになったいちごうは、この家の空気へすっかり馴染んでいく様だった。

 畑仕事の休憩中、いちごうが表情豊かに語っては二人を笑わせる。アイリーはいちごうの日本語こそ分からなかったが、身振り手振りが大袈裟で笑った。いちごうは彼女が笑ってくれる度嬉しい気持ちがした。

「そんなこと言って、おじいが聞いたらまた怒るよ」

「ええ、今居ないでしょう、トイレですよね?それにこれは愛情のお返しの一種ですよ。私は毎日楽しいんです。おじいの御蔭で色々な事を体験しています。土に触れるのも、野菜を採るのも、軽トラも、あ、これは内緒でした。全部、楽しい、新鮮な体験ばかりです。それで沢山働いた後のご飯はとびきり美味いです」

「当然だ。しっかり体動かしてお前は人の三倍食え」

 戻って来るなりおじいは乱暴な口を利いた。だがいちごうは慣れっこで、言葉尻だけ受け取って礼を述べている。一度ダウンして以来殆ど活躍できていない奏は、気まずそうに肩を落とした。

「奏くんが落ち込むこと無いのよ、あなたは博士なんでしょう」

「そうですカエデさん、奏は私の生みの親であり親友であり家族です。日々研究熱心で、凄腕の持ち主です。将来は世界へ名を馳せる偉大な博士になるのです」

 カエデさんは目を細めて微笑した。

「心配は尽きないと思うけど、あなたはあなたの遣るべきことへ時間を費やしていいんだよ」

 奏自身そろそろ決断しなければと考えていた。ここへ残っていても、ノートパソコンの簡易システムだけではいちごうを見守る事くらいしかできない。動力源に関して言えば今やほとんどが口からの食事で、機械部分については小さなバッテリー一つで一週間はもつ。奏が残る事でいちごうのシステムの不具合、体調の変化等にすぐに気が付けるというメリットはあるが、機材が無ければ対処できない可能性が高い。研究も停滞中である。いちごう一人を残す事に不安はあるものの、奏も矢留世同様通う方が正しいやり方に思えた。夜布団の中でじっくり考えた奏は、朝目が覚めた途端、同じくぱちんと目を開いたいちごうに向けて一旦帰るねと言った。いちごうは既に予期していた台詞であったので、うんと明快に答えた。


 夜明けには鳥が羽をばたつかせて夜露を払う音で目を覚ます。寝床を片付けたいちごうは庭へ出て、古都吹家の庭でやっていたのと同じ準備運動をした。間もなくおじいやカエデさん、アイリーが起き出してきて、四人で手分けして朝の畑仕事に取り組む。ここのところ雨が少なく、水遣りが大仕事になる。それから収穫だ。素手でしっとりと濡れた胡瓜の葉に触れると、案外ごつごつと丈夫な葉っぱであるとわかる。実ったきゅうりの表面は、指の腹を刺激する尖ったぶつで一杯だ。サイズも色も形も少しずつ異なっていて、いちごうはどれを収穫してよいか迷ってしまう。教えを乞おうと首をきょろきょろすると、別の畝でミニトマトをかご一杯にしていくアイリーが気付いて、歩み寄って来る。ぶら下がるきゅうりをざっと見渡して、指を差して食べ頃を教えてくれる。いちごうはありがとうと笑って、今度は自信満々活きの良い青物へ手を伸ばす。

「いて」

 指先に刺激を感じて見てみれば、赤い血が滲む。いちごうは自らの肉体から生み出された一滴の赤を、ただじっと見た。

―これが自分から生まれたか。

 と何度でも思うのだった。手が止まったままでいると、アイリーがまた心配してやって来て、短く「ダイジョブ?」と初々しい言葉で聞いてくれる。いちごうはサムアップして、収穫を再開した。


 アイリーは、自国の戦禍から逃れるためにこの国へやって来た。隣国の侵攻はある日突然正当化されて始まった。戦火はみるみる国土へ広がり、人々の暮らした日々を、慎ましやかに営まれ、築き上げてきた日常を踏み潰し、消し去った。命は悉くことごとく理不尽に奪われた。陽の光をほしいままに浴び、月下に祝杯を交わして遊ぶ者の居るのと同じ時、同じ地球の土台の上で、虐げられる命がある。だがこの大きな矛盾を露呈させた時の暴君を、世界は止められないで今日に至っている。ひょっとすると億千万の民の中へ、神の一手を差し向ける隙を耽々と狙っている者が在るのかも知れない。流された血の分を、そっくりそのまま浴びせようとする者が在るのかも知れない。いずれにせよ、既にして奪われた命一つ、尊厳一つは、元へは戻せない。彼の国から逃げ惑う民を逃がすべく手を貸した人々の内にも、現地で命を落とした者が居る。アイリーを助けに行った源三郎の娘もその内の一人だった。


第四十三回に続くー


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