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読切りよりみち「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」(後編)


 澄ました顔を崩さないか、頬を緩めても仕事向きの笑顔しか見せない女社長が、この時有り得ない程に優しく笑みを浮かべたのだ。ここが日々活動家の集まる忙しないオフィスだと、瞬く間に忘れるような、梅雨のじめじめとした鬱陶しい湿度も吹き飛ばすような、辺りを和ませる、あまりに自然な笑みであった。それも一瞬だけの仕草であった。他人の私生活を探偵するような真似はしたくないと思いつつ、それにしても鉄壁なあの社長を、あそこまで柔らかく笑わせられるのは一体何者だろうと、星乃は俄然注意深く瞳を社長へ注いだ。然し手早くスマートフォンを操作した社長は、あっさりそれをデスクの上へ手放して、素早く仕事へ戻ってしまった。もう頬にも口角にも先程の柔らかさは残されていない。星乃は相手が尚の事気になった。もしプライベートの方面からのものだとして、それなら男か女か、それともアニメか、俳優等という場合も考えられると思う。彼の彼女もスマートフォンでアニメ情報や贔屓俳優のスキャンダルに一喜一憂する可愛らしい一面を持っている為、社長も或いは配信ニュースの一文でも目に留まった可能性があると考えた。だがどれも彼の想像の域を出ない。席を立って社長の元へ押し掛けて、
「今会社では見せない笑顔を無意識のうちに曝していらっしゃいましたが、何を目にされたんですか」
 とまさか真正面から質問する勇気など到底ない。

 星乃は一旦それ以上の追究を諦めて、また己の仕事へ手を戻した。それから半ば意識的に、もう一度あの顔と出くわす機会はないものかと心密かに、大いに期待して観察するものの、やはり社長は一筋縄ではいかなかった。

 気が付けば彼が入社して半年以上が経っていた。長い夏の連日の猛暑を越えて、近頃漸くスーツジャケットの内側が快適さを取り戻して来た処である。星乃の努力は今頃になってもまだ報われないまま、彼の頭の上へ大きな疑問符を浮かべさしていた。彼もいい加減に詰まらぬ執着は止して、その分頭を彼女との式場探しやら新居の方へ持って行く方がよかろうと思い始めていた。

 そう云う秋晴れの在る日、社長が大きな手提げ袋を両手に出社してきた。早速刈屋が手伝って、社長のデスク迄運んでいく。社長は礼を述べるなり、袋の中へ手を入れて、食べないかと刈屋に袋の中身を差し出した。真っ赤なりんごであった。刈屋は顔を綻ばせて、好物ですと二つ喜んで受け取った。社長はそのままオフィス内でりんご配りを始めた。
既に自分のデスクで業務を始めていた星乃は、一部始終を目にしながら、それでも大人しく自席で手を動かすよう努めて、ただ耳と意識とは段々彼の方へ近付いてくる社長へ向けない訳にいかなかった。そしてとうとう社長は彼の席の横へやって来た。
「星乃くん」
「はい」
「あなたはりんご、食べないかしら」
 社長の手元へ首傾けると、まだりんごは沢山入っていた。星乃は顔上げると社長と視線を合わせて、随分沢山在りますねと笑った。
「ええ、貰い物なのよ」
 そう云って社長は困ったように、けれども何故か嬉しそうに笑った。星乃はこの瞬間、
「これだ!」と閃くように直感した。社長がたった今頭の中へ思い浮かべている人は、過日のスマートフォンのあの人と同一人物である。社長の心は今まさにその人で満たされているのだ。そうと気が付くと、星乃は直ぐにでも合っていますかと尋ねたくって仕方が無い。だが社長は重たいりんごを持ったまま彼の返事を待ってくれているのだ。星乃はそれと気が付いて慌てて返事を寄越した。
「僕も好きですが、彼女が凄く好きなんです、りんご」
「あらそう。それじゃ少し重いけど、幾つか持って帰るかしら」
「ありがとうございます。頂きます」
 星乃のデスクに並んだりんごは、どれも真ん丸と大きくて真っ赤であった。美味しそうですねと褒めると、社長は産地直送なのよと云ってまた笑った。そうか、この人にもこんな風に心を落ち着けて笑い合える人が傍に居るのだなと思うと、星乃は無性に嬉しくなった。丁寧に礼を述べて、彼は徐に立ち上がると、
「手伝います」
 と云って社長の手からまだ重たいりんごの袋を引き受けた。一緒に後の社員のデスクを回る積りである。社長は素直に礼を述べて、先へ立って歩き始めた。

 後ろ姿を追いながら、星乃は淡々と考えた。もしも自分に彼女から楽しい連絡が届いたら、心溶かしただらしない笑みを零すだろう。そう思うと、社長のは違う系統である。にやにやと云うより、包み込むよな優しい笑顔である。全体社長の向こう側に存在するものとはなんだろう。社長の傍に居るのは、一体どんな人なのだろう。星乃の謎解きは、まだまだ終わりそうもないのであった。

 彼はこの時ほど、この人の普段の顔が見てみたいと思った事はなかった。

                         おしまい


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