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読切りよりみち「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」(前編)

※長編小説「よりみち」の番外編です。前・中・後編に分けて掲載します。「よりみち」を読んでいなくてもお楽しみ頂ければ幸いです。また一息にお読みなられる方は下の全文掲載の方へお進みくださいませ。


「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」

 この際だから、彼の正直を持ち出すとしよう。
 彼は当時の仕事に何の不満も抱いていなかった。元々特筆した長所もなければ社会的地位も欲していない彼は、月々の仕事への対価がそれなり口座へ振り込まれて、休日には会社から解放され自分の時間を謳歌できるのであれば、仕事の中身には大した執着も持ち得なかったからだ。にも拘わらず、大学を卒業時に、就職活動で人並みに骨折った挙句入った職場から、僅か一年足らずで、自分の時間を割いてでも転職という活動を自ら進んで起こしたのは、或る男が、その男の歳が彼の二個上であったのは転職してから知ったものだけれど、偶々居合わせた街の珈琲屋で、随分陽気な顔でキャラメルフラペチーノのそれもグランデサイズを注文したからであった。

 と、これが先ず一番始めのきっかけであって、それが実際運動へと断然動かされたのは、どうせ働くなら美人社長の下で働ける方が楽しそうだと云う下心に他ならなかった。
 珈琲屋のレジで財布を取り出したのはその男では無かった。男が、
「頭を使った後は甘い物が飲みたくなるんです」
 と云って屈託なさげに笑みを向けた隣の女性の方であった。その女性の方が年上であるのは一目で観察できた。そして男と女性の他にもう一人若い女性も一緒であった。三者の会計を纏めて済ませたのが一番年上の女性であった。そして商品を受け取った男は年長者へ向かって一度だけ「社長」と云う言葉を使った。三者は首にお揃いの赤い紐をぶら下げていて、その内女性二人は紐の先をジャケットのポケットへ仕舞い込み、男だけは胸元へ揺らしたままであった。隠すのを嫌がるようでもあった。三人はやがて一斉に自動ドアを抜け、通りを歩く最中も親し気に会話を重ねながら去っていった。ドアの完全に閉まる前に、年上の女性が男に向かって、
「あなた折角長身なのに猫背なのね―」と注意するのが彼の耳に聞こえて来た。

 彼は己の連なる列の順番がまだ先であるのを言い訳に、遠慮なく三者の言葉と振る舞いと立ち位置とを観察する事へ没頭した。そうして、男が首からぶら下げていた会社の証に印字された文字をしかと自分の脳裏へ焼き付けて澄ましていた。
 ドリップコーヒーのショートサイズを一人掛けのカウンター席へ運び終えて後、彼はスマートフォンを取り出して、早速脳裏に焼き付けた会社名を検索にかけた。甘党の男が社長と呼んだ女性は、長い黒髪を綺麗に纏め上げて、身なりへ相当気を遣う人種であるのは明らかであった。後ろへも目が或ると揶揄されるのは恐らくこう云う種類の人間を指すだろうと彼は思った。自分へ対して気を緩めるを全く許さないような、張り詰めた空気を常に背負っているとも受け取れた。そして、長い黒髪の似合う人間は脚色された二次元世界にしか存在し得ないものと、彼は今の今まで思い込んで生きて来たもので、どうやらそうばかりではないらしいと、人生で初めて思わされた記念日でもあった。

 彼は比較的自由な一人暮らしの所有者であった。彼の住まうマンションには、休日の度に足繫く通って来る付き合って二年の彼女が在った。その関係は当初から周囲が驚く程に良好で、余りに波立たぬ故一度か二度ばかり反対に津波を起こしたいような衝動も彼の側は起こし掛けたのだけれど、其処までのうねりを大きく発展させるだけの物語の創作と、その物語の登場人物になるだけのエネルギーを押し出すのが面倒で、実際には彼の頭の中で、劇が一幕ばかり開演されたのみであった。そう云う訳だから、彼が転職の話を持ち出した時も、彼女との会話は始終穏やかに取り交わされた。彼女は励ましの言葉も素直に持ち出して、彼の決断を緩やかに後押しした。果たして全てが彼の予想通りであった。彼は満足な様子で彼女の励ましを素直に受け取った。会社の中身も、その会社の社長が女性である事も全て隠さず曝け出した。唯一つ、黒髪への印象を改めた事だけを彼女の前へ打ち明けなかった。彼の彼女は、長くはない黒髪の持ち主であった。

 打ち明けなかったのは、彼の心の内に矢張り二人の間に波の起こるのが面倒だと云う気持ちが大きく作用するからであった。けれども彼は、秘密を抱えているとは思わなかった。彼女へ対して済まないとも思わなかった。それは彼の愛の対象が、真実目の前の彼女へしか向いていないからであった。いくら現実に美しい対象を認めたとしても、実際に強い興味を惹かれたとしても、イコール己の愛の対象になり得るかと云えばそんなことは無かったからである。彼はそこまで不誠実な人間でも無かったし、どちらかと云えばこのまま二人の未来を順調に描き切って、一つ屋根の下へめでたく収まりたいと云う願望さえ持っていた。畢竟彼女への思い遣りが、彼の黒髪云々の新発見を黙らせたのであった。

 求人募集がなされていた訳では無かったが、彼は誠実な態度で会社へ己の希望を並べてみせた。突き詰めれば根底にどうせ働くなら―等という邪念も、もはや純粋無垢な人間でも無かったから在ると認めて良かったけれども、其処を白状するのは本人に向かってと云う事もあるがあんまり愚かな仕業であるし、結局真面目な方の彼が会社に注ぐ好奇心と意気込みとが女社長に伝わって、結果的に採用される運びとなった。会社自体はそれ程大きくない物の、伸び盛りで多少人手を増やしたく、求人を出すか否か検討している処であったのが、都合よく手を挙げる人間が寄って来た為に、これも一つの縁と捉えられたらしかった。


※読切りよりみち(中編)へ続く―


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