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掌編「星、そそぐ、夜に手を。」


 夜の向こうではいつだって星が謡う。瞳を凝らして、耳を澄まして、ほら、愛が降って来た。一緒に手を伸ばそう―

「人員募集中」
 貼り紙にはそれだけが大きく書かれて在った。学校の中庭の、レンガ造りの花壇の隅に、木製の小さな看板が刺さっていた。花の名前でも無く、世話する学年の表記でも無く、恐らくは何処かの部活だろうけど、人員募集中と、黒のマジック重ねて太く、強調してある。人手不足なのはよくわかったけど、何処の部活だか書いていない。致命的である。花壇の花はパンジーと、後は知らない。僕は植物の事なんて何も知らない。只色とりどりの世界に居座る野性味溢れる黒文字が、この可憐な世界を、レンガで装われた日向の世界を侵略している不可思議が、あまりに唐突であったから、遂忙しない足を止めて見入ってしまったまでである。


「入部希望者かい?」
 脳天に気儘を浴びせる様な朗らかな、しかし野太い声が、突如後方から近付いて来た。反射的に振り返る。大柄な男が立っていた。明らかに僕へ対して発せられた台詞で、僕は何か返さなければ済まないだろうと思わせられる。
「いえ、たまたま、立ち止まっただけで」
 自分と同じ制服、一学年上のカラーラインの入った開襟シャツを着た男、つまり先輩男子は、僕の返答に大した興味を抱かなかったのか、或いは風の悪戯に耳を擽られたのか、こちらの瞳を捉まえながらも反応はなく、反対に僕の目を引き付けてから離した。視線はコンクリ割って背を伸ばすコスモスに走り、それから渡り廊下を横切って、校舎に入るのかと思いきや、ぐいと天空へ飛ばされた。昼間の青い空、隠れ損ねた白い月が半分と少し浮かぶ。
 まるで引力に負けたと云わんばかり、手を腰にあて、先輩男子は吐息を漏らした。不愉快と云う感じは全くなかった。

「どうしてみんな夜空を見上げるのだと思うかい」
 僕は答えの無いクイズは苦手である。何をかけても零が加われば全て無に返す数字の世界とは違って、思考には宇宙と同じだけの広さと余白を有していると思う。際限なく生まれ、生まれては消える果てなき思考。そんなものにAは引けない。
 だが、僕はもうこの時、先輩の引力に負けていたのかも知れない。唇が、答えたがった。
「きれい、だから」
「うん、そうだね、奇麗だ。では人類が掴めもしない熱と光を奇麗だと思うのは何故だろう」
 答えたがったんでなく、答えを知りたがったのかも知れない。
「ううん」
 案の定口は開いて見たものの、僕にはきれい以上の答えを用意出来なかった。


「命だからだよ。今まさに燃え尽きようとする命。だからあれ程眩しいのじゃないかな。だからあんなに輝いて見えるんだと、僕は思うんだ」
「命」
「そう、この星だって同じだろう。生きているんだ」
 そう云って先輩は地面をとんとんと足の裏で叩いてみせた。更に顔傾けて、耳を大地に近付ける。
「地球と云う惑星の、命の鼓動が聞こえるかな」
 調戯からかうにしても、遣り方が無邪気で、否定も追随も出来ない僕は、両手を垂らしたまま、大きな先輩が隣で地球と会話試みるのを、黙って見守っていた。秋風が吹いた。僕の額ともみあげを掬って、先輩の前髪と遊んで、もうじき衣替えで着収めになる開襟シャツの裾を払い、移ろいの風は渡り廊下を抜けて行く。

「僕の親父はね、今冥王星に向かってる。爺ちゃんは向こうで果てた」
「人類に、そんな真似、できるんですか」
「面白い質問をするね」
「え」
「地球上に居る者がみんな人類だって、どうして言い切れるんだい?」
 僕は口に乗せるに相応しい言葉を持たなかった。この人が一体何処の人だか、人でないのか知らないけれど、その本質は全く不明で、ただ先輩だと思い込んで隣に立って会話して、つまりは制服を信用していただけなのかも知れなくて、そうであるならこの人自身の何を根拠に、どんな言葉を語ればいいのか分からなかった。けれども不思議な事に、先輩の言葉全部が全部、嘘には思えないのだ。あやふやなのは、寧ろ自分の方かも知れない。
「戸惑うね」
「いえ、あの―」
「無論、馬や羊の話をしているんじゃないよ。人の形をした者に限った話だ」
「大丈夫です、分かってます」
 ははは、と先輩は笑った。立派な前歯を見せて、眉を持ち上げて笑う人らしい。
「然し君は素敵な人間だなあ、真正直で、第一純粋だ」
「いいえ、そんな善人ではありません」
「謙虚も持ち合わせているか。よしなさいよ、それは無くても困らないから」
「はあ」
「こんな中庭の、花壇の片隅に立つ、陳腐な貼り紙に気が付いた。それだけで十分だよ」
「いや僕はただ、部員募集じゃないのかなと思ったから」
「はははっ、君は本当に面白いね」


 ほうき星世界に絵を描いた。アンドロメダは自由を求めてペガサスと舞う。はくちょう、こぐま、きりん、わしも続く。踊ろう、謡おう、手に手を取って輝くは命。光放つ刹那は、やがて我の瞳に届かんとする。我の心に響かんとする。さあ、手を伸ばそう。一緒に愛を受け止めよう――


「どうだい、人手不足に君の手足を貢献させてみないか」
 はは、と今度は僕が笑う番だった。でも決して馬鹿にしたのでなくって、それは柔らかい、共鳴の合図だった。先輩は受け止めてくれた。厚い右手が差し出された。
「園芸部へようこそ」
「え、天文部じゃないんですか」
「うん、近頃天文学は受けが悪くてね、同好会止まりだったんだ。それで園芸部と手を組んだ」
「そんな、僕は草花の事なんて何も」
「気にしなさんな。みんな素人だ。知りたい事は草花に教わろうよ。土に尋ねようよ」
「はあ・・・」
「けど、どうだい、もし僕が土にも草木にも花にも明るい人間になれたなら、いつか木星へ行ったとき、植物を育てる方を、土の作り方を、木星の住民に伝える事が出来る。そうなったら君、彼等、或いは彼女等が、この青く美しい地球を侵略しようと思う事もないだろうと思わないか。何しろ飢えてひもじい思いをしなくて済むんだからね」
「はあ」
「おや、疑っているね。無理もない。だけど僕は待ち遠しいな、いつか金星に降り立つ日が。そこでも存分に腕を揮おう。火星では、あれだよ、憧れのオリンポス山を登頂しようと思ってる。木星なら、そうだな、挨拶代わりにぐるりリングを歩きたいね。まあ、ゆくゆくは僕も、冥王星に向かうことになるが。先の話だ。それで、君は何処に行きたい?」
「えーっと、月が。月に行きたいです」
「ほう。理由は?と、聞いてもいいのかな」

 この人ならば、人と呼べばいいのか分からないけど、先輩ならば、笑わないと思った。僕は初めて自分以外に宇宙への憧れを打ち明けた。
「手を伸ばした事があるんです。窓から、夜中目が覚めたときに、こう、捉まえたくて。でも届かなかったから」
 触れられると思った。静かに満ちた月に、自分さえ手を伸ばせば触れられると思ったんだ。冷たいかしら、滴るかしら。それとも熱く、燃えているのだろうか。全部夢だった。醒めても甦る、憧憬だった。
「健気な衛星の月か、可愛いね。うん、全く君らしい」
 可愛いは遠慮したいが口挟む余地が無い。
「よし決めた。これから毎朝ここの花壇の水遣りを君に任せるとしよう」
「ええっ!?」
「卒業までに花壇の花を、今よりもっと見事に咲かせる事が出来たら、その時は月を、触らせてあげるよ」
「そんな」
「いい取引だろう。君は幸いにして園芸部員だ。分からない事は草花と、それに他の部員に聞く事も出来るぞ」
「他の部員って」
 目の前に居るだろう、と、楽し気な瞳が笑っている。
「天文部も、本当にくっ付いていますか」
「勿論だ。園芸部兼、天文部だよ」
 よく見ればこの人ズボンの後ろポケットに園芸用の手袋突っ込んでるじゃないか。本当に天文部もくっ付いているんだろうか。僕の硬い頭は決断迫られてぐるぐるしていた。まるで先輩の衛星のようだ。すると先輩が、すうっと右手を持ち上げた。その人差し指が真っ直ぐ指し示すのは、遥か上空、地球の外から顔覗かせる、愛おしい星である。

 愛が降って来た。

「分かりました。やってみます」
「いい顔するね。その意気だよ」
 ちょっと得意であった。小鼻くらいは膨らんだろうか。そうして不図思い付いたので、最後の質問と顔上げた。
「卒業までにって、どっちの方ですか?僕?それとも先輩?」
「はははっ、君やっぱり面白いね」
 宇宙に飛び出すその日まで、僕の日常に、新たな命が吹き込まれた。

                         

                        おしまい


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