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【短編小説】知らない私を私は知らない


1Kの間取りの部屋は、1人で暮らすぶんにはちょうどいい。孤独や不安を抱えている今の自分にはありがたい大きさだった。

明日は遅刻しないように、壁に着ていく服を、ハンガーにかけていた。本当は私服でいい会社だけど、入社式があるからスーツを用意している。その服をベッドの上で、三角座りして眺めている。

さっきまで、つい数週間前まで実家の自分の家で観ていた、推しているVtuberの投稿動画を眺めていた。そこまでは良かった。そしてその後、全く関係がないように思える、フリー素材を使った昔の事件を語る動画が流れた。そのドキュメンタリーの中にいる犯人の幼少期は壮絶で、自分は、犯人の方を、かわいそうだと思った。

そして自分の体に、急に大きな影が落ちた。

急に不安になったのが何故なのか分からない。

もっとそうそうたるポイントがあったような気もする。

上京して初めて見た東京駅。親が涙ぐんだ瞬間。地元に残った友達と電話した瞬間。どの場面も素通りして、今、自分の不安はこの時を選んだ。

動画の再生が終わって、おすすめの動画の一覧で止まったスマホ。急に静かになった小さな部屋の中。トイレと風呂はどうしても別々にしたくて、ちょっと無理をして、新しい職場から離れた、それなのに家賃の高いこの部屋。その代わりセキュリティはしっかりしている。親も最初の一年は、少し援助してくれるって言っていた。少しだけね。付け足すように言われたけど、それがどっちの意味なのかは、子供の自分にはまだ分からなかった。

自分は幸せ者だと思う。反抗期のない学生生活で、親との関係もずっと良好だった。犯罪も犯したことがない。学校も今時珍しい私立のマンモス校で、エスカレーター式だった。大学も実家から近い事を理由に、経営学部があるところを選んだ。似たような、自分のやりたいことが19歳にもなって見つけられていない人ばかりだった。それは今もそうだ。自分なりに悩みはたくさんあったけど、今思えば、それは丘を登ったりくだったりするようなものだったんだと思う。多分。

明日の入社式の事を思い浮かべる。インターンであった人たちもいるはずで、同期と呼ばれる関係になるんだろうと思う。うまくやっていけるだろうか。そもそもすでにいる人たちと良い関係を築けるのか。これから毎日、この部屋よりも長く居ることになるあの職場で、自分は、本当にやっていけるんだろうか?

自分は、何も知らない。

今の自分は、自分が、3年後に職場の人と付き合い始めることも、4年後に恋人と別れることも、7年後に転職することも、その後実家に帰ることも、結局地元で再開した同級生と結婚することも、子供が欲しいか欲しくないかを確認せずに入籍したせいでいざという時大喧嘩になってしまったことも、なんだかんだ生まれた子供が結局可愛くて仕方なくなってしまったことも、その子供の成人式で泣くのを我慢したけど結局号泣してしまったことも、自分に癌が見つかることも、自分の足で歩くことが当たり前じゃないと実感することも、パートナーが本気で自分を慈しんでくれたことも、本気で愛したただ1人の人だったなあと誇りを持って思えたことも、それを感じたのは今みたいな桜が咲くか咲かないかの季節だったことも、何も知らない。

未来の自分が、たくさん生きた時間の花束を持って、今、不安で明日が見えなくて膝を抱えている自分を、静かに待っている。


おわり



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