見出し画像

編纂記 #12 言語は数学か、の議論(哲学)

議論は、大抵の場合世の中には不可欠なものではない。人間が定義づけることで物事を進捗度や円滑度をアップさせたり、また議論をせざるを得ない状況を無意識のうちに作ってしまっているか、そんなときに行われる行為である。

■どうでもいい話

そんなことはさておき、議論といえば言語は数学なのか、という議論が稀にある。また、言語学の議論というのは学術的なものは頻繁に(四六時中)行われている。例えば文法範疇や助詞などもその一つである。専門的な内容でないものだと言語学と語学の区別についての議論はよく行われている印象だ。

今日も平日なので手短に説明、いや議論していきたい。

■言語が数学の観点

いまいち、数学というものがどういったものなのか詳しい定義はない。国語的な定義あっても必ずしもというかほぼ使えない。

そもそも、これを定義することによってなにが得られるかが問題だ。こういった結果を重視した考え方は言語学的というよりはどちらかといえば数学的な思考回路だ。その、得られるものとは。
たぶん、言語を単純な数学という決まりきったフラットな概念として整理することによってより簡単に言語の全貌を把握できるようになるのだ。これはどういうことかというと、例えばX語というものがあったとする。X語はマイナー言語である程度研究が進んでいて文法書は存在するが完璧に全ての文法事項がまとまった文書はないとする。その時、A氏がこのX語を学習しようとすると、"文法の全貌がわからない故にどんな勉強の仕方をしても正しい文法の理論性が身につかない"。極端な例を言えば、世界中のすべての言語を見たときにその各言語にあるすべての要素を集めて、それを言語別にコード化すれば整理は簡単にできるのではないか(そこから学習するという話は別)。

■"パズル性の塊"論

これが数学のいわゆる理論性と重なるのでは、と思うがこれはあくまで肯定を前提として考えたときの話である。でもこれ、思ってしまった。どちらかというと算数に近いのではないか。でも、この議論で何を得たいかといったら言語は数学と同じ構造だということではなく、それ故に理論で整理を完全にできる=パズル性の塊であるかということだ。

これは、俗に言う"言語は生きている"という考え方が阻害する。もしこれが本当ならば、生きているものを理論で整理できるはずがない。よくテレビなどで"本当の意味を知っていますか?>実は!..."的な流れをみるが、そんなんでよくマウント取れるなと思う。正直言って話のネタにもならない。これは何を間違えているのか少し考えた。そうか、"正"と"真"が区別できていないのか。別に世は理論として正しいことを求めてるわけじゃなくて"真"つまり実際を求めているわけである。これを言語学的視点で見るとまた言葉のニュアンスの違いがおもしろい。

■文法フレームとフレキシブルパーツ"語彙"

よくよく考えてみれば言葉は変わっても時代の流れで頻繁に基礎文法が変わるなんてことはない。もし変わったとしても新たな文法という概念を構築して根っこから変わることなんて有り得ない(少なくとも、時間経過を原因としては)。ならば、やはり言語は簡単に整理することができる。こうなると、語彙は文法という絶対に変えられない理論性の付属品として非常に多様な状態で存在する"パーツ"ということになる。文法とは真逆に自由度が高すぎるパーツだ。でも、こうやって思考実験で分かっても最終的にはやってみないとわからない。だから、今度試してみよう。

意味のわからない状況になったところで一旦、今日のところはネタを寝かせておくとします。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

■関連記事

*余裕があれば第二弾本討論会をやりたい

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,537件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?