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20210304 通院メモ 絶対的なものと相対的なものについてグルグル思考になる

ここのところリハビリのプログラムにようやくついて行けるようになってきた。
取り組んでいること自体は、1年通っているので同じ内容が3回目くらいになるのだが、前に受けた2回はほとんど記憶にないし、理解できていなかったと感じる。
なぜなら、プログラムの内容を自分事として落とし込み、活用して自分のことについて知るための行動、モニタリングやセルフコントロールへとつなげることができていなかったから。
そういう意味では、ようやくプログラムの内容を活用して、モニタリングなりできるようになってきたのかもしれない。
色々と思い当たることや、自分の性質や特徴を理解できるようになってきている。

以前にもnoteに書いたのだけど、自分の根本的な心理状態として「恐怖」や「不安」がものすごく大きい。
軽躁の時も、混合状態の時や鬱の時も、すべてにおいて劣等感や自己肯定感の低さから来る「恐怖」という気分によって、行動のパターンが決まっている。

今日のリハビリでは、集団認知行動療法のプログラムで、そうした軽躁や混合状態、鬱などのサインがどんなもので、それがどんなときに出やすく、そしてそれを未然に見つけるにはどんな工夫をすれば良いか、もしそのストレスサインが出てしまったらどんな後処理をすれば良いかを出し合うことに取り組んだ。
10人くらいのグループで、それぞれの特徴に応じてエピソードを出し合っていく。
そうすると、共通したものも出てきたりする。

ある人が、軽躁状態の時に「物欲が高くなる」というエピソードについて発表された。
自分も、同じように物欲が高くなるときがある。
しかし、その発表された方と大きな違いがあることに気付いて、そこからグルグル思考へと入っていくことになる。

自分の場合、物欲には大きく分けて二つのものがある。

一つは、趣味に関するもの。
これについては、ここのところずっとカメラに関するものばかり。
今は、どちらかというとフィルムが一番お金のかかるものになってしまった。
複数のカメラを持っているので、それを順繰りに持ち出してシャッターを切るだけでもかなり楽しむことができているし、何よりちょっと古いデジカメを使うのが楽しいので、満たされているところもある。

もう一つの物欲に関することが、「本」。
これについては、仕事に関する専門書などから、広い世界の視野を広げるためのものまで、結構幅広い。
しかし、これはどちらかというと教養を高めたり、知識を得たり、理論について知見を広めたり、また古典に触れることで移り変わりを把握するというようなもので、趣味のものもあるにはあるがとても小さい。
特に、仕事に関する本に関しては、SNSを通じて意見の交換をすることが増えてきていた。
自分の仕事にどのように活かしていくか。
常にその視点の中で、読書をしているようなところがある。
仕事としては、単純なルーティンも多々あるが、仕事をしている個々人のクリエイティビティやセンスを発揮することもできたりする。
自分の場合、ここでも大きな劣等感が出てくる。
それは、過去の自分の姿からの反省でもある。
知らないことを自覚せず、狭い自分の了見だけで仕事をしている自分がいた。
そのことによって、何かと色々なことにつながってしまったという後悔がものすごく大きい。
勉強している人は勉強している。
そんなことに気付いたのは仕事をし始めてから10年以上経ってからのこと。10年の遅れは如何ともしがたい。
なんとか追いつきたいと思うようなところもあった。
焦りがものすごく大きくなる。

こんな思考がリハビリの間に湧いて出てきた。

そして、疑問も出てきた。

「はて、今クリニックで一所懸命にモニタリングしてつかもうとしているのは、今の自分。しかし、焦って取り組んでいたり不安や恐怖を感じている自分というのは、誰かと比較している状態の自分、つまり相対的な自分なのではないか?」

どうも、仕事というものに関して物事を考えると、自分の思考が誰かと比較した相対的なものになってしまうのかもしれない。
そういうのも必要なときもある。
ただし、これから仕事に戻ったときに常に向き合わなければいけないのは、「今、そのときの自分」であり、これは絶対的に存在しているもののはず。

ここのところが、わからなくなってきた。
「今」や「自分」という状況を把握するのは、あくまで自分でである。他人の視点ではない。

これ以上の思考をしようとしても、何が問題で何が自分にとって課題となるのかが見えてこない。混線している感じ。
また、この辺のことを少しずつほどいていくことができればいいな。

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