ブログをやってて1番よかったことは、ブログで稼げたことではない
私は現在複数のブログを運営している。(最近はnoteを書くのが楽しくてブログがおざなりになっているけれど…)
ブログを始めようと思った動機は、正直に言うとお金を稼ぎたかったからだ。当時は副業という言葉が一般人にも浸透し始めた頃だったと思う。それでブログに出会った。
さて、ここで伝えたいことは、ブログで稼ぐことができたからみんなもブログを始めよう、というそんな単純なことではない。
私がブログを始めたことによる1番の恩恵は、生産活動の偉大さに気づいたことである。
私はブログという生産活動を通して、いかに生産活動が重要であるかを身をもって体感したのだった。
今では、こんな反物質主義的なエッセイを書くようになってしまったが、少し前までの私は圧倒的な消費者だった。
誰かが生産した食材を食べる。
誰かが生産した物やサービスを購入する。
誰かが生産したSNSの投稿や動画を見て時間を潰す。
私の生活はほぼ100%消費活動だったと言ってもいい。自分でこの世に何かを生み出すという、生産的な行為を全くしてこなかった。
そんな私はブログという文章と情報を世の中に向けて発信するという生産活動を始めた。
当時は毎日ブログと向き合っていた。ひたすらライバルやキーワードを分析し、ひたすらに文章を書いた。朝起きて1番、本業に行く前にブログを書き、本業から帰ってきてまたブログを書いた。
あの時ほど時間が足りないと思ったことはないかもしれない。
そんなことを続けていたある日、私は自分の消費活動が減っていることに気がついた。
Amazonのサイトを意味もなく眺める時間が減った。
ふらっと大型ショッピングモールに出かけて、服を買う機会が減った。
SNSやYouTubeを見る時間が減った。
でもこれは当たり前のことなのだ。
時間というのは1日は24時間だと決まっていて全ての人間に平等に与えられている。毎日3時間ブログの執筆という生産活動に時間を使うことで、3時間分は消費活動が少なくなることと同義だ。
そしてここが不思議なポイントなのだが、生産的な活動をしていると、これまでは消費することでしか満たされなかった欲望が、なぜか少し満たされた気分になる。
消費をする時間が少なくなったことと、消費をする欲が少なくなったことが重なり、今までとは比較にならないスピードで貯金ができるようになった。
今となっては、お金がかからない生産的な趣味を持つことが最強の節約方法になり得ると本気で思っている。
そうこうしているうちにブログは成長しお金を生み出すようになった。
その時、世の中のお金持ちというのは生産者という立場にいるんだなということがわかったのだ。
消費者マインドから生産者マインドへと変化した瞬間だった。
もちろん、ブログは最初から多くの人に読まれたわけではない。
これまで星の数ほどの人間がブログを始めては、成果が出ずに儚く散っていった。私ももう少し結果が出るのが遅ければ、既に筆を置いていたかもしれない。
生産的な活動を始めるためには、莫大なエネルギーが必要でいちいち重い腰を上げなければいけない。一方、消費活動は簡単に己の欲求を一時的に満たしてくれる。
目先の快楽だけを満たすためならわざわざ大変な思いをして生産的な活動をする必要はないし、苦労して何かをこの世に生み出したとしても、誰にも見向きもされなければ意味がない。
そう思う人も多いだろう。
確かにこの世は結果がほぼ全てで、結果が出なければ何の意味もないのかもしれない。それでも、100%消費者から1%でも生産者側になる努力をすることが、この消費社会で損をさせられないために重要だと私は思う。
消費者のままだと、この世の中を牛耳っている生産者に操られるような形で一生を終えてしまうからだ。
資本主義とは、いかに人々に大量の消費をさせることができるかというゲームである。この世の中は、多くの人に消費をさせればさせるだけ儲かるようになっている。
物やサービスを作ってそれを可能な限り高値で可能な限り多く売る。そのために多くの企業が、ありとあらゆる手段を使って私たちに消費をさせようと鎬を削っている。
人間の習性や心理すらも計算に組み込み、本当は必要のないものでさえも、必要なように錯覚させ、私たちに消費をさせようとしてくる。
世の中のお金持ちたちは、そんなことを当たり前のように知っていて、無知な私たちに消費をさせることなど造作もないのだろう。
しかし圧倒的な消費者である私たちは、自分がいかに消費をさせられているかという事実に気付くことができない。そうやって貧富の差は拡大していく。
偉大な発明をすることができるのは一部の天才だけだ。
しかし誰でも、小さな生産活動はすることができる。
ベランダで野菜を育てるのも1つの生産的行為だ。
野菜を育てる楽しみや大変さ、そして手塩にかけて育てた野菜を収穫し頂くという行為。それらを体感すれば、スーパーに並んでいる野菜を生産者としての立場から眺めることができるようになるかもしれない。
自分がこれまで経験してきた人生の体験を世の中に発信するのでもいい。
例え拙い文章だったとしても、そんな小さな生産活動が、消費の魔の手から身を守るための防衛手段になり得ると私は思う。
そして世の中に認められ、自分で何か価値のあるものを生み出したとき、あの時の自分が正真正銘の生産者になった感覚はなんとも形容詞がないものがある。
今ブログを始めたばかりの初期の頃の記事を見返したら、見るに堪えない拙い文章で笑いが込み上げてきた。とても人様にお見せできる代物ではない。
でもそんな拙い文章から私の生産活動は始まったのだ。
もう私たちは、自給自足のようなすべてを自分で100%生産する生活はできないだろう。今の人間社会は緻密な役割分担によって成り立っているからだ。
多くの生産者が歯車となりこの世界を回している。
だからこそ私は、自らも生産者の歯車となり、この世界に必要なパーツであると思いたいのかもしれない。
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