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甘い生活

・短編小説
・原稿用紙5枚分

今日は大事な日なので、同居人の蓉子(ようこ)よりも早く家を出た。

早朝というだけでこんなにも空気が澄んでいるのかと驚く。
すがすがしい気持ち。
駅までの近道に通る神社の木々の葉も、太陽を透かすように明るく、風にそよいでいる。石畳を鳴らす靴音すら耳心地がいい。

わくわくする気持ちと、不安な気持ちの両方を同じくらい抱えたまま、電車に乗り、揺られ、歩き、学校の前にたどり着いた。

私立清学館(せいがくかん)女子高等学校。
今日からここで三週間、教育実習をうける。

校門から見ると、卒業した頃と変わりがない。
けれども、旧校舎の向こう側には新校舎が既に建っていて、生徒達のホームルームの教室は既にそちらに移ったらしい。
科学室や美術室、職員室などはまだ旧校舎の中にあり、二棟目の新校舎の完成にあわせて取り壊されるのだそうだ。
先週の説明会で在勤の先生がそう説明をしてくれた。

八時。職員室で挨拶の時間が設けられた。
先生方はほぼ知った顔だ。教育実習生は私を含めて三人だ。

一通りの挨拶もおわり、三年一組の担任の白石先生とともに教室に向かう。

八時半になり、ホームルームが始まった。
高校三年生は、大学四年生の私から見ると華奢であどけなくて、私も当時こんなに幼かったのかと驚くばかりだ。

キラキラした目を向けてくれる子もいれば、興味なさげに窓の外を眺める子もいる。そうだ、こんな感じで自由だったなあと当時を思い出す。

午前中は授業の見学だった。
ついつい生徒に戻ったような感覚になってしまい、必死に気持ちを切り替えた。

お昼休みは教育実習仲間と一緒にカフェテリアでとった。
二年生だという生徒達が、シネマ鑑賞会のチラシを持ってお喋りをしにきた。新校舎にできたメディアホールというところで来週の放課後、映画を上映するらしい。

「甘い生活」。イタリアの巨匠の作品だ。
蓉子と一緒に先週、家でDVDを観たばかりだ。
チラシの下に、「責任者:真広(まひろ)先生」とあった。
心がときめく。「真広先生」か。懐かしい。

図書室に行きたいからと、二人よりも早めにお昼を切り上げた。
図書室はまだ旧校舎の二階に、昔のまま存在していた。

本棚の隅の窓際にいく。
そこに立つと、ちょうど斜め下にある職員室の入り口が見える。
ここでいつも待っていた、真広先生が通るのを。
ただ見るだけで嬉しかった。
真広先生との接点なんてなかったから、姿を見るだけで充分だった。
あれは、完璧な私の一目惚れだった。
先生のふわふわした髪が好きだった。
ちょっと時代遅れなメガネのフレームも似合っていると思った。
受け持ちの生徒と話すときの穏やかな表情が好きだった。
微笑、という言葉はまさに真広先生のためにあるのだと、思った。

そんな風に片思いをしていた頃を思い出していたら、本人が眼下を通っていったのでぎょっとした。研修に支障がでないように、なるべく接近は避けたほうがいいだろう。

集中力を保ったまま六時間目まで乗り切り、ホームルームも終わった。
けれどまだ今日の実習は終わらない。
職員室の隣の控え室に戻ってみんなで日誌を書いた。

家に着いたときは八時をまわっており、お腹がぺこぺこだった。
急いでパスタを茹でる。
タマネギとハムを炒めてから簡単にバター醤油で味付けをした。
蓉子はいつも帰りが遅いので、一人分をお皿にわけてサランラップをかけた。

ささっと食べ終えてから、ローテーブルにノート型パソコンを出して開いた。明日の準備をしなければならない。

「……起きて、起きなさい」
肩に温かな手が触れた。
──蓉子だ。
いつのまにか眠ってしまっていたようだ。
蛍光灯がまぶしい。
目をつむったまま両腕をのばすと、蓉子はその中にすっぽりとおさまるように入ってきてくれた。
温かな蓉子をきゅうっと抱きしめる。

「実習一日目、お疲れ様。緊張したでしょう」

蓉子の、少し低いくぐもったような声。
耳なじみがよくて、大好きな声。

「学校にいたら、初恋を思い出したよ。大好きだったの。真広先生。すごく大好きだったの。それを思い出した」

目を薄く開けると、蓉子がくすぐったいような表情をして私を見ていた。

「ねえ、家でも、真広先生って呼ぼうか」
「いやよ、家では蓉子にしてよ」

真広先生は楽しそうに笑った。

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