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ただすること、無為

物心ついたころから
ただするって感覚からなにかの為にするっていう感覚に移り変わっていった。

試合に勝つための練習、時間にうかるための勉強、褒められるために動くのような。目的主義。

結果と引き換えに今を捧げる。
そこに最初あった楽しみは消え、飢餓感や苦しみから物事を行うようになりはじめる。

結果が出てるうちはまだ納得できるんだけど、
結果が出なくなった時とか、一区切りつく目標の場合、燃え尽き症候群のようなものになって虚無感にまきこまれる。

しまいには、
何のために生きてるんだろ俺みたいな。

それは、
ただする喜びをわすれてしまったからなんだけどね。ただ行為する喜びを。
若い時はそれに気づけなかったりする。
物心ついた頃から適者生存のシステムの上を走ってるから。真面目に生きている人ほど、結果のために今、準備みたいなのが当たり前になってる。
もちろん、そうでない人もいることは前提に。

そのやり方で、感覚で、辿り着く先には、喜びがないと気づいたとき
やっと振り出しにもどる。

頭で考えた行動は、剥がれ落ちていって、
赤ちゃんの時のような無作為が現れてくる。
すると、
することそのものが楽しくなる。

ただ座る、ただ歩く、ただする。
無為の。

禅の本に昔書いてあった
只管打坐
ただ座る
っていう言葉の意味
その時はなにを言ってるのか全くわからなかったが、やっと腑に落ちた。

座ることで何かを得ようとしてた
ことから
ただ座ることに。

ただ座る。

それしかないし、それが喜び。
頭のなかの思考が苦しみを生んでいただけで、それを捨てて、ただするだけ。

頭の中の思考も楽しいんだけどね、能動的にしてるのか、受動的にさせられてるのか
そこにはだいぶ違いがある。

嗜むことと、依存することの差というか。
そこにやめるかやめれないかの差というか。

ただすることが
こんなにも楽で嬉しいなんて。

ただする。それのみ。
について今日は書いてみました。

またまた〜。


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