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あしあとのあしあと-架空の事件を起こした幼少期、変わり始めた生活-

こんばんは。あしあとです。
私は児童虐待当事者です。それ以外にも、愛着障害で1年間こども病院に入院し、特別支援学級から普通級に戻り生活していきました。

その後不登校経験を経てフリースクールに通い、その前後途中に児童虐待に遭いました。

フリースクールに通っている時に耐えきれなくなり、一時保護所に保護、帰宅後通信制高校に進学し、紆余曲折ありながら通信制高校を卒業、現在に至ります。

私は何者でもなく、評価されるすごい人や、特別な何者にもなれなかったけど、こんな人が生きていたんだよって証を残したくて今回このエッセイを書きました。エッセイに人生のほぼ全てを書くぐらいの気持ちで書きました。今まで生きた証です。是非読んでみてください。

普通にみえた幼少期


小さい頃の私は至って普通の子どもにみえた。

幼稚園で友だちと一緒に走り回って、虫をいっぱい集めて、バケツに入れて、遊具のドームの中に放置して反応をみるような、ちょっとやんちゃな私だった。

そんな生活が変わったのは、私が小学校1年生に上がったときだった。

それはなぜか、

私が学校の先生にいじめられたと言って突然不登校になってしまったからだ。

私が学校の先生に虐待を受けたと言って、お母さんが警察に通報した。でもそれは私の嘘で、お母さんによって故意ではなく着色されることになったその事件は、リアルさを増して警察が出動する自体になった。4月の終わり頃だった気がする。幼かったから記憶が曖昧だけれど、警察が出動して家宅捜索が行われた。

結果、なにもなかった。それは当たり前だった、だって、全部嘘なんだもの。

でも、あまりのリアルさにお母さんは病気を疑われて入院することになった。

結果、脳波の検査が行なわれ、お母さんには統合失調症と境界性パーソナリティ障害、軽度の知的障害、軽度の記憶障害、てんかんの診断名が付いた。

私も入院することになった。そこは都道府県の子ども病院というところだった。

子ども病院での生活

子ども病院に入院すると決まったときは診察を受けた当日だった。今までの経緯と、私は床を蹴ってぐるぐる回る症状(愛着障害の症状にある)が出ていて、それで念の為診察を受けに来たときだった。

私は反応性愛着障害(反応性アタッチメント障害)の診断名が付いた。

愛着障害とは・・・「なんらかの理由で親や養育者と子どもの間で愛情の癒着が形成されずに、情緒面や対人関係に問題が現れてしまうこと」(引用元:ブログのatGPさんより)

反応性愛着障害とは・・・「うれしさや楽しさの表現が少なく、つらいときや甘えたいときも素直に甘えられず、人のやさしさに嫌がる態度を見せます。相手に無関心で用心深く、信頼しないなど人との交流や気持ちの反応の少なさがあり、一見すると発達障害の自閉スペクトラム症(ASD)のような症状を示します。説明のつかないイライラや悲しみ、不安などこころのコントロールに問題もみられます」(引用元:福井大学医学部附属病院より)

愛着障害には2種類あって、他には脱抑制型愛着障害がある。私は反応性愛着障害だった。


突然の出来事だった。

後から聞いた話だと、両親どちらも虐待している可能性があったからそれから守るためだったらしい。それにしても判断が早い!!

子ども病院では、まず親の泊まり込みができないから最初の頃は泣き叫んでた記憶がある。初日はお父さんが眠るまでそばにいてくれて、眠った頃にお父さんは家に戻った。

私の入院した子ども病院の一般病棟では、同室に骨折した高校生の女の子がふたりと、別室に寝たきりの子などが居た。

私の1日はDSのカセットと、連絡用に持たせてもらったスマホのゲームと、病院のテレビカード式テレビ(テレビカードというものを買って、1カードに付き何時間観れるというものが決まっている)、病棟に居る子どもを相手するお仕事の方(看護師さんではない、一体なんだったんだろうあの人)とぬいぐるみでごっこ遊びをすることで大体が回っていた。お勉強はたまにしてた、たまに。(贅沢な生活…お勉強あんまりしてないのは小学校1年生だからね!)

あの子どもを相手する方には、よく病院のご飯が不味くてご飯に醤油をかけて、アルミホイルを敷いて、病棟の電子でチンして焼きおにぎりを作ってもらってた。病院食にはない味付けの濃いあのおにぎりはとっても美味しかった。

骨折してきた高校生のお姉さんはあたしって言うし口調はぶっきらぼうな今思うと性格ギャルのお姉さんだった。そのお姉さんは入院していた当時、私の1番のお友達のお姉さんだった。

そのお姉さんはいつも私の面倒をみてくれていて、一緒にDSで遊ぶことが多かった。そのうち口調も移ってきて、私の主語はあたしになった。

私の入院途中にお姉さんがもう1人入ってきた。そのお姉さんもたしか骨折して入院してきたお姉さんだった。そのお姉さんと前から居るお姉さんが仲良くなって、3人で消灯時間を過ぎてもこっそり布団に潜ってゲームをしていたのはいい思い出。

そのうち最初から居るお姉さんが退院して、その後途中から来たお姉さんも退院していった。今でもDSにはフレンドリストにそのふたりのアバターが残ってる。(のちに最初のお姉さんはまた骨折で入院して私の退院まで居ることになる。一体なぜだったんだ…)

子ども病院の近くには公園があって、看護師さん同伴じゃないと公園に行けなかったから、そこによく入院中は遊びに行っていた。(なんもないけど小学校1年生にはとっても楽しいよ!てんとう虫いた!!)(それしか記憶にない)

最初の頃はお母さんと弟ふたり(双子)が小さい子は病棟には入れないから面会室があって、そこで面会していた。お母さんが来ると毎回不安定になっていたから、お母さんとは会わないことにしようということになった。お母さんの様子もおかしかったからお母さんも入院することになった。

その時に世にも珍しい代理ミュンヒハウゼン症候群の疑いの診断書が出ていたことを高校生の頃に知った。


私はその生活の間に、広汎性発達障害の疑いで知能テストを受けたり(広汎性発達障害ではなかった)、病院の院内学級に通って勉強をしたり、お父さんと弟達の居る家に外泊を重ねて退院の準備が整っていた。気付いたら1年が経とうとしていた。

院内学級については勉強終わるまで鍵開けて出してくれなかったのがトラウマ!!でも院内学級で夏祭りとかやって楽しかった記憶もある(病棟ごとに上の方に鍵があって勝手に出れないようになってた)。

ついに退院する日、病棟の看護師さんや仲良くしてくれた子どもを担当する人達が卒業式の輪っかを作ってお別れするあれみたいに、並んで見送ってくれた。手元にはいっぱいの退院おめでとうのコメントの入った色紙があった。私はこうして1年間の入院から退院した。

お母さんは虐待してた

私が架空の事件を作ってしまった、なんで嘘をついてしまったのか、今思い出すと、それは私の幼稚園時代にあった。

私はお母さんに絵本を読んでもらった記憶がない。私が3歳の頃に弟(双子)が生まれて、お母さんはそっちにつきっきりで幼稚園生の私に弟達のお風呂を入れることを任せたり、ママ友の愚痴をいつも私が聞いていたりした。

表ではママ友と仲良くして、電話を切った後すごい勢いで悪口を言い始めるお母さんがすごく怖かったことをよく覚えてる。

ストレスからか、お母さんは言うこと聞かない私を弟達の前で押し入れに閉じ込めて突っ張り棒をして、お昼ご飯を抜きにして放っておいたこともあった。幼稚園生の私だけ家に置いて、弟達は連れて買い物に出かけたこともあった。

昭和生まれの方はあるあるかもしれないけれど、私は左利きで、お箸を右で持って食べられるまで放置されて、ご飯が2、3口ぐらいしか食べられなかったこともよく覚えてる。

結局左利きのままだけど、今でもトラウマ。

だいぶ経ってからお父さんに聞いた話だけど、お父さんは弟達が生まれてからずっとお母さんにDVを受けていたらしい。お父さんだけが我慢すればいいと思っていたって。家を追い出されて車中泊してたときもあったらしい。

そんなの嫌だよね。

弟達も痣があった(つまり虐待されてた)ときがあったと聞いた。私もお腹に痣があったときがあって、寝てる間に蹴られてたんだと思うって言われた。

家族は離れ離れになったけど、ある意味このタイミングで離れてよかったのかもとあとで思った。

酷くなる家庭環境、退院した後のお母さん

私が退院した後、お母さんと一緒に暮らしていた時期がある。そのときのお母さんは処方箋のオーバードーズ(大量に薬を一気飲み)、ベランダから飛び降りようとする、弟達もいる前で首を吊ろうとするなどとにかく怖くて酷い容態だった。

お母さんは毎日泣いて死ねばいいんでしょみたいなこと言ってた記憶がある。

首を吊ろうとしたりしてるときは、弟達と一緒に子ども部屋に行って、秘密基地みたいにしてたのが楽しかったなって記憶がつよい。子どもだからことの重大さをよくわかってなかったんだね。

私の目の前でお母さんがお父さんの顔に熱いコーヒーかけたときは一生忘れられない。この時期の影響で、結婚とか家族に関してあんまりいい印象を持たなくなった。

そして、ある日突然、お母さんが弟達だけを連れて実家に帰った。

途中から祖母が家に手伝いに来ていて、それからはお父さんと私と祖母の3人暮らしが始まった。

退院してからは前の学校とは別の学校に通い始めてたんだけど、それはまた次回。

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