具現化しきれない感情があるよって話

最近、言葉が詰まる。ということが前にもまして増えてきた。

私は、口下手な方ではないと自負しているのだけれど(だからといって口上手なわけではなく。)それはとても表面的な会話の時であって、そういう時は大抵

言葉が先行して考えを巡らせる場合が多い。

この場合、言葉が考えを支配しているから、人に伝える時にそう苦労はしない。
時間もかからない。

思考が言葉より前に出ることはないし、表現が下手だろうと、話す順序やまとめ方が下手だろうと、思考と言葉はイコールであり、そこに大きな溝や隔たりを感じる事はない。

思考が言葉というしっかりと核のあるものとして収まってくれる。

しかし、もっと内向的な考えやアイデアに対しては真逆の思考回路になってしまう。

考えやアイディアが言葉よりも先行して出てしまうから、 “これだ”という答えはしっかりと頭の中に存在しつつ、それは水晶玉のようなもので、外部と内部を隔てる境界線はしっかりとあるのだけれど、なんせ透明だから、なにかアクションを起こさなければその境界線が分からない。光を当てて反射を使うか、それとも直接手で触るか。。。

なににしても、この考えを誰かに伝えたいのなら、大抵の場合、言葉に頼らざる得なくなる。(音楽や絵画といった作品で表現をする手も勿論あるが、その為には膨大な時間と技術を持ち合わさなければならないし、あいにく私にはそういった才能には恵まれていない)これは、水晶玉に色を持たせようとするもので、あまりにも抽象的で繊細なその何かを具現化するための試行錯誤をしなくてはならない。

あれでもないこれでもないと沢山の色を試している間に結局綺麗だったその透明な水晶玉は濁ったグレー色の泥水のようになってしまったり、

幸運なことにこれだという表現が見つかったとしても、元々抽象的なそれを物質化させるような作業だから、そこに何かしらの誤差が生まれる。

綺麗な色に水晶玉を染め上げたとしても、それは最初のそれとは違う気がしてならないのだ。

百科事典のようなずっしりとした厚みのある重さは、人を安心させる。

そのくせ言葉で表現することで、感情の希薄さを感じてしまうことを知っているから、言葉によって具現化されることを拒んで、輪郭をはっきりとさせず透明な水晶玉を大事にしまい込むことを選ぶこともある。

それもそれでいい。

言葉を遥かに超える無限にある人の感情の存在は、悩ましくもあるけれど、

具現化しきれない存在があることは、やはり一個人としての美徳のような気がする。

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