舞台とは理解を超えた体験である


 とっても久しぶりに舞台を観に行くことにしました。


 10/6から開催の根本宗子さんの『Cape jasmine』、すでに幕が開いている『ナイツ・テイル』の二作。じつはコロナ禍になる前から体調を崩しておりまして、その影響もありなくなくあきらめた舞台もいくつかあって、実際劇場に足を運ぶのは二年半ぶり…(なんということ…)まだまだ社会はぜんぜん落ち着きがない状況ではありますが、いまからとっても楽しみです。

 そんなこともありまして、今日は社会人になってから観に行くようになった演劇とわたしの出会いや思い出をつらつらと書いていこうかなと思います。

 わたしの幼少期からの芸術体験は、どちらかというと文章や絵といった何かの媒体にすでに落とし込まれたものであることが多く、いわゆるライブ感のある生の芸術はほとんど触れてくることがありませんでした。どうしてだろうと考えたのですが、おそらくわたしの家はあまりお金があるタイプのおうちではなかったというのが理由のひとつかなと思います。本はほとんど図書館で借りていましたし、わたしは自分のおこづかいをもらうようになるまで漫画を読んだことがありませんでした。図書館ってタダであれだけの本を読み放題なんて本当にめちゃくちゃすごいし、いい図書館があるかどうかでその地域の芸術への理解度がわかるよなっていう話はまた今度することにします。

 まあとにかく、即時性のある、その空間を体験する時間を買うという芸術は、我が家にとってとにかく高価だったのだと思います。なのでわたしが舞台芸術をはじめて観たのは、自分でお金を稼ぐようになってしばらくしてからでした。

 そのときたまたま好きな漫画家さんととある劇作家さんがコラボすると知り、よくわからないけれど好きな人が一緒に仕事をしているならきっと良いものをつくるのだろうと信じて始めて観に行ったのが、藤田貴大さん演出の小指の思い出でした。

(いま調べたらなんとびっくり2014年!)

(このときは俳優さんのことも何も知らなかったので今主演が勝地涼だったということと松重豊が出ていたということを知り今更驚きを隠せないという無知っぷり)


 劇作家の名前と、タイトルしか知らない状態で初めて観た野田秀樹作のその作品は、話の筋が全く見えてこないまま、満席になった東京芸術劇場のプレイハウスを「何か」で埋め尽くしていました。その「何か」、舞台の上から、ライトから、演者から、あふれてくるものの正体はついぞわからないまま、舞台の最後、主人公が振り絞る台詞を聞きながら、なぜか涙があふれてきたのを覚えています。

 「理解を超えた体験」、そういう肌で感じるものが、舞台というものへの信頼を生んだような気がします。


 観終わったあと、芸術劇場を出て池袋の街を駅に向かって歩きながら、演劇ってこんなに楽しいんだ、すごいんだ…という感情をかみしめ、その日もらったチラシの束を家に帰ってぱらぱらと眺めながら、面白そうだなと興味を持ったもののチケットをその日のうちに取りました。それが、そのすぐあとに池袋のあうるすぽっとで行われていた、劇団柿喰う客の女体シェイクスピア『暴走ジュリエット』。シェイクスピアの時代、すべてのキャストを男性で演じていたというそれを現代で女性のみで演じる作品でした。舞台上に出てくる演者の衣装はセーラー服や学ラン、医師など現代の制服たち、しかも舞台装置はほとんどないまま演者の矢継ぎ早の台詞だけで進んでいく内容に、舞台体験二作目にして「やはり演劇というのはとんでもないものに違いない…」と思うには十分の出会いでした。


 

 最初の小指の思い出が、何も知らないまま観てあまりに素晴らしすぎた…という体験があったため、わたしは観に行く舞台の前情報をほとんど入れないまま観に行くということがほとんどです(レビューも観ないので、たまにこれじゃなかった…という舞台もあったりするのですが)内容がわからなくても、素晴らしい舞台は「何か」を感じることができる、というのがなんとなくの持論です。

 あと、本当に面白いものというのは、(舞台に限らずですが)一見さんのことを絶対に見捨てない、と知っているので、そうすることができるというのもあります。

 あらゆる長く続いている作品や活動というのは、それを作っているひとたちにとっては延々と続いてきた歴史の上に成り立つものなのですが、お客さんがどこからその作品に触れるかというのはその人たちによってさまざまです。なので、どの場所から見ても面白い、というのは、とっても重要なのです。熱心な長年のファンにわかってもらえるだけでいいという姿勢は、その活動を必ず尻すぼみにさせるからです。

 最近映画館で堂本光一氏の「endless SHOCK」という作品を鑑賞しまして、本当に本当に素晴らしくうっかり最近は堂本光一氏のことが気になって気になって仕方ないのですが(そうして「ナイツ・テイル」を観るのです…) endless SHOCKという作品は、十年以上続いているにも関わらず、2021年ド新規のわたしも包み込んでくれるエンターテイメントの上質さがありました。多くの場合ファンクラブに入る等でしかチケットが取れないであろうこの舞台の良さは、なかなか世間に広まることがなかったのだと思うのですが(だってあれを一度見ちゃったら絶対次も行きたい…!ってなると思うし、年々競争率は上がるよね)コロナ禍で映画館上映してくれたおかげで、かなり多くの人に素晴らしさが伝わったんじゃないかなと思います。

 このように昔からのファンと新規が両建てて応援していくようなものでなければ、長い間続けていくことは難しいと思うのです。



 というわけで今回は前述した藤田貴大さんと、劇団柿喰う客の演出家である中屋敷法仁さんが手がけた、わたしが好きな舞台をいくつかご紹介して終えたいと思います。


cocoon 憧れも、 初戀も、爆撃も、死も。(2015年) /藤田貴大(マームとジプシー)

 今日マチ子原作漫画の舞台化。前述した、藤田さんとコラボしていた漫画家さんです。第二次世界大戦中の沖縄の少女たちの人生を描いた作品。

 2015年の再演を観に行ったのですが、本当に素晴らしかったです。開始30分以降ずっと泣いていたと思います(会場じゅうみんな)この舞台に関しては、漫画原作をすでに読んでいたというのがあり、このあと彼女たちがそれぞれどうなってしまうかを知っていたので、よりつらかったというのもあります。藤田さんはリフレインを印象的に使う方で、出来事や台詞を何度も何度も続けることで、その出来事をより印象的にするのですが、その「何回も繰り返す」というのは、人間が脳内で繰り返し思い出す作業にとても似ています。そして、同じ出来事を体験した人間の数だけ、その出来事はそれぞれの人間唯一の角度で記憶されるということでもあります。複数の人間の記憶を多面的に、そしてひとりの人間の中でも、出来事は多面的になり舞台上の現れる。演劇というものが舞台上に表現できるのは、時間や記憶そのものでもあるのですね。

 藤田さんが率いているマームとジプシーでも演じておられる青柳いづみさんという女優さん、cocoonでも主演されているのですが、この方の少女性と、しかし少女といういきものはすべて「女」であるのだ、という空気感、ものすごく残酷で、うつくしいです。

(今調べていたら2020年に再演…!?そして中止!!?映像化していないのでぜひもう一度観たい舞台、ハンカチ必須)



半神(2018年)/ 演出 中屋敷法仁

 萩尾望都原作、野田秀樹がかつて舞台化した半神を中屋敷氏が演出。

 相も変わらず前情報を入れず挑んだため、会場に行ってはじめて主演の方が当時乃木坂46のキャプテンを務めていた桜井玲香さんだと知る。桜井さん、圧倒的な演技力とすさまじいオーラ、本当にアイドル…?と一瞬でファンになりました(最近はミュージカルにも多数出ていらっしゃいます)

 半神は話自体も重い内容なのですが、ラスト30分の桜井さんの演技、人間の自我の貪欲さと生きたいという執念、けれどそのどれもがひとりのにんげんの美しい生きざまであるというようで、本当に素晴らしかったです。


舞台文豪ストレイドッグス 黒の時代(2018年) / 演出 中屋敷法仁

 いわゆる2.5次元と言われる、漫画やアニメが原作の舞台。第一弾の舞台が好評だったという話をききつけ、相も変わらず原作のアニメや小説をあまり知らない状態で観に行きました。池袋のサンシャイン劇場で、わたしは全く内容のわからない舞台で大号泣するという体験をし、翌日以降のチケットを合計四枚ほど追加購入し、ランブロ(ランダムブロマイド、2.5舞台ではよく売られています。写真のガチャガチャみたいなものです)を六十枚買い、主演俳優の谷口賢志さんに手紙を書き、後日DVD発売の際に行われた発売イベントにも参加し、今でもDVDは大切に持っています。

 前述した通り、中屋敷さんの舞台は大がかりな舞台装置を使わず、役者の台詞、照明、役者の立ち位置などだけでその世界を見ている人に想像させる力を持っています。この「黒の時代」も、その中屋敷さんらしさが随所に発揮されており、特に物語のクライマックス、主人公に起こるある出来事の描写からの決意のシーンは、涙なくしては見られません。

 中屋敷さんの舞台は、動と静のバランスがとても印象的で、たくさんの人間が舞台上にいるときの雰囲気と、あえて役者ひとりだけを何もない舞台のスポットライトに照らすときの、緩急の差がすばらしいです。


無差別(2017) /劇団柿喰う客

 初演は2012年。わたしが観たのは2017年の柿喰う客フェスティバルでの再演。劇団柿喰う客は中屋敷法仁氏が演出脚本を務めていて、舞台にいる間役者はほとんど息つく間もなく台詞を続けるのですが、その幾重にも重なる台詞が、舞台装置のかわりになったり、人物の内面を表したりと、とにかく効果的。個人的な意見ですが、ことばが文字ではなく、役者の口から声をして発されることを(そしてそれを観客が耳から聞き、そこから理解と想像をすることを)明確に意識しながら台詞を作っているのではないかと思います。ひとは耳から聞いた音を、内容として理解するまでにすこし時間がかかり、中屋敷さんの台詞の運びはそのタイムラグまでも計算されているのかもしれないと思います。ひとの視覚情報が舞台であるにも関わらずかなり限定されている舞台構成であることも、耳と想像のちからを使うことに注力できる構造になっている気がしています。

 内容はだれしもの奥底にある差別や偏見を鋭く冷たいまなざしで見つめ続けるようです。けれど彼は人間を憎みきれないのかもしれないと感じます。第57回岸田國士戯曲賞最終候補作品。



 舞台って、体験したひとの数だけ思い出があって(それはどんな芸術ももちろんそうなのですが)わたしのこの体験たちも、同じ舞台をもう一度観たらまた変わるのかもしれません。

 けれど、同じ舞台はもう、二度とないんですよね。

 紹介した中の文豪ストレイドッグスは今度映画化されるそうで、黒の時代の主人公が満を持して復活するのですが、2018年時とキャストが変わっている人もいますし、本当に残念ですが、もうこの世にいない方もいます。あの日、あの時、あの劇場で過ごしたすべてを、わたしはわたしの記憶の中で、永遠に大切にしていこうと思います。

 

 書こうと意気込んで書いたらめちゃくちゃ長くなりました!

 ここまで読んでくれた方がいましたら、本当にありがとうございました。

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