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本当の意味の”共感”とは。自分の”当たり前”を押し付けるな。

今日は、私の心の最深部にも触れる話になります。親しい友人にも話したことのない話。

みなさん、感動する映画を見たとき、どんな想いを持ちますか。人が死ぬ映画、家族の映画、いろんな映画がありますよね。

「すごく共感した!」「感動した!」

こんな感想を持つ人は、非常に多いと思います。

それは、本当の意味での「共感」と言えるのか。私はいつも疑問に思っています。

 

私が読んだ小説で、タイトルも内容もいつ読んだかも覚えていないのに、一つだけ頭から離れないフレーズがあります。

「人が死ぬ映画で感動できる人間は、大切な人が死んだ経験がない人間だ。」

 

簡単に「感動した」「共感した」と言う人たちは、本当にそう思っているのでしょうか。自分の記憶にも経験にもないことなのに。

本当に意味での”共感”ってなんなのでしょうか。

 

 

誰にも言ってない、”私”と”家族”の話。

ここから少し私自身の話です。ちょっと重たいかもしれません。

私は今23歳でもうすぐ24歳になるというところなんですが、すでに両親が二人ともいないです。

母親については、私が生まれてすぐに親が離婚したので、顔も見たことがないですし、名前すら知りません。
最近、叔父から「会おうと思えば会えるよ」と連絡が来たのですが、会ってもうまく話せる自信がなかったので断ってしまいました。20年以上なにも知らなかったのですが、生きていることが知れたので少しだけよかったです。自分の母がちゃんと存在している実感を得られました。ただ、今後会うこともないと思います。

父親については、去年の4月に亡くなりました。本当にどうしようもない父親で、正直尊敬する部分もないし、私はあまり好きではなかったです。育ててくれたのも、ほとんど祖父母でしたけど、たった一人の親が亡くなったことは悲しい出来事でした。
遺品を整理しているとき、父のスマホの見たんですが、私と私の姉が写っている写真が待ち受け画面で、パスワードも私の誕生日でした。なんだかんだ言って父親だったんですよね。

そんな中で育つと、両親が揃っている家庭や仲がよさそうな家庭をみると、羨ましく思います。私が今後どう頑張っても得られないものを持っているんです。

私にとっては、この環境が当たり前だったんです。

 

 

”当たり前”と”共感”と”同情”

私の周りの人の中には、さも両親がいることが社会の”当たり前”であるかのように、
「両親はなにしてるの?」「実家になんでそんなに帰らないの?」
と、聞いてくる人がいます。

普段はテキトーに「なにしてるんだろうねー」とか言って流すんですけど、本当のことを話したときはどうなるのか。

空気が一瞬重たくなるし、「大変だね」っと声をかけてくれる人もいると思います。でも、それはたぶん私に”共感”しているわけではないんですよね。その人自身は、両親がいることが”当たり前”の環境で育ったんだから。

本当の意味での”共感”は、自分が経験したものにしかできない、と私は思います。

自分が経験していないことについては、あくまで他人事で”同情”になるのかな、と思います。

”共感”と”同情”は紙一重で、全然違うものです。

 

 

”当たり前”は人によって違う。押し付けるな。

私は上記のこともあり、自分から家族の話をしたり質問したりはしないようにしています。
自分があまり話したくないというのもありますが、私みたいな環境が当たり前な人もいるということを身をもって知っているからです。

本当の意味での”共感”をしてくれる人ってあんまりいないものです。

簡単に「共感した!」「大変だったね。」と、見せかけの共感をするのではなく、自分の”当たり前”が世の中の”当たり前”ではない、ということを知ってほしいです。

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