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鹿せんべいと、動画撮影

奈良公園は、あっちこっちに鹿がいた。大仏殿から、南大門を抜けて、大きな道路に出るまでの間には、特に、たくさんいた。鹿は、一見、おとなしそうで、かわいかった。そして、そういうところでは、もれなく鹿せんべいが売られていた。十枚二百円。
鹿せんべいを買う観光客は、少なくなかった。観光客が期待しているのは、鹿せんべいを差し出すと、かわいい鹿が寄ってきて、おとなしくモソモソとせんべいを食べるのを見て、萌える、という展開だ。ところが、南大門近辺の鹿が、そこにいる理由は、ビジネスだ。
女の人が、鹿せんべいを買った。近くの鹿の群れに歩み寄った。左手に鹿せんべいの束を持って、右手で一枚差し出した。すかさず、7匹の鹿が、女の人を取り囲んだ。そのうちの5匹が、無表情のまま、鹿せんべいを持った右手に、顔をグイグイと突っ込んだ。横の2匹は、無表情のまま、束を持った左手に向かって顔を突き出した。鹿は、噛んだり、引っかいたり、のしかかったりはしなかった。無表情のまま、ただ、顔を突き出していた。右手のせんべいは、あっという間になくなった。全ての鹿が、左手めがけて顔を突っ込んだ。女の人は、その圧の強さにひるんで、パニックになっていた。丸ごと持っていかれそうな左手の鹿せんべいをかばうように、鹿に背中を向けた。鹿は、女の人を取り囲んで、四方から、顔でねじ込んでいた。その向こう側に、悲鳴を上げて小走りで逃げる、別の観光客の姿が見えた。そのあとを、4頭の鹿が、歩いてついて行っていた。
 
私は、最近、ツーリング中に、動画を作って遊ぶようになったので、今回のツーリングでは、鹿が、いい感じで鹿せんべいを食べる動画を撮りたかった。人が少ないところの方が撮影に向いているだろう、ということで、撮影場所は、若草山山頂にした。山頂の展望台の入口で、鹿せんべいを買った。展望台に行くと、十頭以上の群れが、地面に腰を下ろして、くつろいでいた。
鹿せんべいを持っているのがバレると、大騒ぎになる。それは、さっき、南大門の前で見た。できるだけ目立たないように、気を付けて歩いた。それでも、さっそく一頭近づいてきた。群れから少し離れたところにあるベンチに座ると、その若い牡鹿は、私の左斜め前に立った。近かった。荒い鼻息が聞こえた。でも、こっちの手元に顔を突っ込むほど、厚かましくはなかった。ただ、前に立って、無表情で、こっちを見ていた。鹿の顔を、こんなにしっかりと観察するのは、たぶん、初めてだった。その表情には、感情が感じられなかった。何考えているのか、全然わからなかった。
そんな彼に、鹿せんべいを割って、差し出してみた。一瞬で食べた。食べ終わると、また、無表情で、そこに立っていた。残りのせんべいめがけて、顔を突っ込んでくることもなかった。向こうの鹿の群れを見た。こっちには気が付いていないらしく、近寄ってくる気配はなかった。
なるほど、こんな感じか。そういうことなら、彼で、動画撮影の練習をさせてもらおう。
画面の下から差し出した右手に、上から鹿の顔が入ってくる、という動画が撮りたかった。せんべいを割って、右手に持った。左手に、カメラを構えて、フレームの下から、右手を差し出した。鹿がせんべいを食べた。右手の動きにつられて、左手が動いてしまって、鹿の顔が、うまく画面の中に入らなかった。やり直した。今度は、画面の中に差し出す右手の角度がよくなかった。鹿を見ながら、カメラの画面を見ながら、右手の位置を調節しながら、左手を動かないようにするのは、難しかった。四回目で、やっと、それなりの動画が撮れた。まあ、こんなもんだろう。若い牡鹿君、ありがとう。
次は、鹿の群れの方々が、次々に鹿せんべいを食べにくる、という動画を撮ることにした。ベンチから腰を上げて、群れに近づいた。鹿せんべいは、隠さなかった。でも、群れの、すぐそばまで近づいても、群れの鹿は、一頭も立ち上がろうとしなかった。一番近くの鹿に、割った鹿せんべいを差し出した。その鹿は、めんどくさそうに立ち上がって、向こうに逃げた。
どういうことだ。鹿せんべいは、全ての鹿を狂わせる魔性の食べ物じゃないのか。南大門の前では、鹿せんべいのために、鹿が、マイルドに人を襲うようなことまでしていたというのに。
予想と違う展開に戸惑って、じっと立っていると、私の右後ろから、若い牡鹿が顔を出した。ああ、君ね、うん、さっきは、ありがとう。これは、あげよう。でもね、今はね、ちょっと違うんだ。少し、離れていてくれるかな。
そのとき、群れの奥の方で、一頭の子供の雌鹿が、顔をあげたのが見えた。こっちに興味がありそうだった。ああ、いいね。次は彼女にしよう。怖がらせないように、ゆっくりと近づいた。子鹿が、立ち上がって、こっちに寄ってきた。左手でカメラを構えた。フレームの中に、せんべいを持った右手を差し出した。すると、その右手を追いかけるように、牡鹿の顔が、右側からフレームの中に入ってきた。あ、君ね、さっきはありがとね。今はね、違うからね、ちょっと待っててくれるかな。
そっと、もう一歩だけ、子鹿に近づいた。カメラを構えた。せんべいを差し出した。右から牡鹿が顔を出した。あのね、君ね、邪魔なんだ。あっち行ってろ、って言ったよね。そっちの子も、何やってんの。もっと、ちゃんとカメラの方に寄って来てくれないと。やる気あんの?
・・・。俺は、何をやっているんだ?
カメラの電源を切って、ポケットに入れた。せんべいを、右手から、左手に持ち替えた。左手を、小鹿に向かって差し出した。右から顔を出す若い牡鹿の顔を、右手でさえぎった。子鹿が、鹿せんべいを食べた。鹿せんべいをひとかけら食べたら、子鹿は、そのまま向こうに行ってしまった。
なんか疲れた。他の鹿は、こっちのドタバタとは関係なく、地面に寝そべったままだった。彼だけが、私の右後ろに、立っていた。
君は、まだ食べるか。他は?せんべい食べたい人、いる?いない?あ、そう。
ベンチに戻って、腰を下ろした。右斜め前に、若い牡鹿が、無表情で、立っていた。せんべいを割った。鹿に差し出した。鹿が食べた。割る。差し出す。食べる。割る。差し出す。食べる。彼は、せんべいを差し出すまでは、はく製のように、じっと立っているだけだった。芸は、当然、しない。せんべいが欲しい、という、かわいらしい仕草もない。表情すら、ない。立派な角が生えていたので、少し触らせてもらおうと思ったら、嫌そうに首を振った。それが、彼が見せた唯一の感情だった。角に触るのは止めた。鹿せんべいを、ひとかけら、自分で食べてみた。わら半紙のような味がした。
結局、十枚の鹿せんべいは、ほとんど全部、彼が食べた。せんべいがなくなったので、展望台からの景色を見ることにした。手をはたいて、せんべいの粉を払った。ベンチから腰を上げて、展望台の方に歩いた。若い牡鹿は、ベンチのところから、動かなかった。
展望台からは、奈良の市街地が見下ろせた。景色の写真を撮った。しばらく景色を眺めて、帰ることにした。
振り返った。若い牡鹿は、ベンチのところから、動いていなかった。私が、駐車場に向かって歩き始めても、ずっと、無表情のまま、こっちを見ていた。

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