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第一と第二

大楠は、来宮神社の一番奥にあった。
上の方は切り落とされて痛々しいけれど、根っこの近くの太い幹は、複雑にうねっていて、いまにも動き出しそうな、筋肉質な迫力があった。
来宮神社には、当然、他にも、たくさん木が生えていた。そのうちの一つ、参道の途中にある、大きな楠の手前に、看板があった。第二大楠、と書いてあった。
第二。
第二なので、第一よりは小さかった。第一は、周りを歩いて回るための廊下がついているけれど、第二は、廊下がなくて、ただの地面だった。それに、第一、第一大楠には、第一、という呼称がついてない。
第二大楠自身は、第二、に認定されたことを、どう受け止めているのだろう。第二、とされてしまったことで、第一との比較は避けられない。やっぱり第二は、とか、第二のわりに、とか、第一に対する劣り具合を積極的に評価されてしまうような立場になってしまった。実際、第一に対して、至らない点があることは、本人も否定しないだろう。何しろ、木、ですから。一にも二にも、樹齢がモノをいう業界だ。生まれが遅ければ、勝てない。それは、本人の頑張り次第で、逆転できるようなものでもない。
そう考えると、第二大楠にとって、第二、の肩書は、あまり好ましいものではない気がする。俺は、第一を意識して、ここにいるわけじゃないんだ。勝手に比べないでほしい。そう主張する第二大楠を想像するのは、難しくなかった。
私は、そういう立場の人が気になる性格だ。映画でも、端役の人がぞんざいな扱いを受けると、応援したくなる。彼にも、第二には、第二の良さがある、と言いたくなった。でも、彼に関しては、普通の大きな楠、として、そっとしておいた方が、個性にあっている気がした。今更かもしれないけれど、第二、の肩書は、穏便に外してあげられないものだろうか。
肩書が取れた瞬間には、やっぱりあいつは第二の器じゃなかった、というような、心無いことをいう奴も現れるだろう。そんな、自分の方がはるかに大したことないくせに、偉そうなことを言いたい、という自尊心のために人を傷つけることを気にしないような奴の言うことは、気にしなくていい。君のような、大きくて立派な楠の一生にとって、第二、と呼ばれた時期は、きっと、ほんの一瞬のことのはずだ。

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