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死ぬまで物件

私が見た写真では、幹の形が特徴的な、まっすぐな背の高い木が、静かな池の中に立っていて、鏡のような水面に映る木の姿がとても印象的だった。写真の木は、ラクウショウという種類の木だった。
その写真の場所は、篠栗九大の森。変わった名前なのは、その場所が、篠栗という地名のところにある九州大学の所有地で、もともと名前のないところに、きれいな写真が撮れる、というので、人が寄ってくるようになったので、いつの間にかできた通称みたいなものだからだ。
私が訪れたときは、池の水が減っていて、ラクウショウの木は、泥沼の中に立っていた。写真の景色とは、全然違った。全然違うなりに、写真の景色に、微妙に似ていたので、たぶんここだ、というのは、うっすらとわかった。でも、全然違うので、どこか違う場所の可能性もなくはない、と、念のために、周りを探してみた。写真と同じ景色は、どこにもなかった。いつものパターンだ。
その写真は、「死ぬまでに行きたい!世界の絶景 日本編」に掲載されている物件。もう、物件扱い。死ぬまで物件にがっかりさせられるのは何回目か。がっかりしすぎて死にそう。死ぬまでに行きたい、というのはアレか、滅多に見られない景色だから、死ぬまでに見られたらラッキー、とか、そういうことか。というような文句を言うのも何回目か。
死ぬまで物件のがっかりするところは、実際に写真と同じ景色が見られないのに加えて、運よく見られたとしても、写真に写っている、その角度の、その景色しか、ないところだ。その角度の、その景色以外の景色との落差が大きい。角度の限定され具合は、一種のトリックアートのようだ。この角度から見ると、あら不思議、飛び出して見える。あれと同じ。一見、何の変哲もないこの場所で、この角度から見ると、あら不思議、見た写真と同じ景色の写真が撮れる。私が、きれいな景色の写真のところに行くのは、見栄えのいい写真が撮りたいから、ではなくて、その風景の中に入っていきたいからだ。死ぬまでに行きたい、じゃなくて、死ぬまでに写真に撮りたい、にタイトルを変えた方がいいんじゃないのか。
そうやって、ぶつぶつ文句を言いながら、泥沼の中の、ちょっと変わった形の木の写真を撮った。
もちろん、わかっている。こうやって、毎回文句を言っているのに、次のツーリングのルートを考えるときも、また、あの本を手に取る。そして、その地方の死ぬまで物件をだまされたつもりでルートに組み込んで、また、だまされる。
でも、結果がどうでも、どこかに行こう、と思う力を与えてくれるのは間違いない。

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