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きれいな風景写真

鳴子峡の紅葉は見事だった。レストハウスの前から、絵葉書のような景色を見たあとで、遊歩道を散歩しながら、紅葉を間近に見つつ、渓流沿いに降りた。下まで降りたら、渓流の景色を楽しんで、そこから、鳴子大橋を見上げた。
簡単に高解像度の写真が撮れる世の中なので、きれいな景色が、いかにきれいだったか、というのを文章で表現するのは、あまり意味がない気がするので、やらない。写真で見る方が、100倍わかりやすい。
私が大学生だった頃は、スマホどころか、デジカメもなくて、「写ルンです」が画期的とされている時代だった。当時も、ツーリングレポートは書いていた。その頃は、景色がどれほどきれいだったか、という記述も、頑張って書いた。観光地の案内にも、そういう記述がたくさんあった気がする。食レポを読んで、その料理を食べてみたい、と思うように、景色の描写を想像力で補って、その景色を見てみたい、と思っていた。あと20年もたてば、食レポも、テクノロジーで置き換えられてしまう気がする。
時代が変わって、きれいな風景を写した写真が見られるようになったから、写真を見ただけで、そこに行ったのと同じになるかというと、もちろん、そういうことは、全然ない。
ツーリングから帰って、写真を整理するときに、あの時撮った、あの写真がない、となるのは、いつものことだ。たいていは、バイクに乗っているときに偶然見かけた目の覚めるような景色を、衝動的に撮った写真が、見つからない。何回も探しているうちに、前後の写真の並びからすると、おそらくこれがそうに違いない、というものが見つかる。それは、そう思って、がんばって見ると、確かにそんな気もする、というのが精一杯なくらいに、あの時見た景色と、全然違う。なんだこれ、と、ガッカリする。写真の景色なんて、それくらいの再現度しかない。やっぱり、現地に行かないと、景色を見たことにならない。
では、そのガッカリな写真を、ガッカリしたところであきらめなかったら、どうなるか。
おそらく、各種フィルターや補正を駆使して、あの時の目の覚めるような感動的な景色と、「感動の大きさ」が同じになるように、写真の景色が加工される。そして、これは、正しい意味で、現地の景色とは、全然違う。本人の感動度は再現されているけど、景色は再現されていない。この場合、その写真に喚起されて、現地に行くと、現地で、なんだこれ、とガッカリすることになる。
ひねくれ者のワタクシは、映える写真が出来上がる過程は、こういうものなのではないか、と考えておるわけです。加工すればするほど、景色はきれいになるけど、元の形は消えていく。香水をつけると、匂いがわからなくなって、どんどん香水がきつくなるのと一緒だ。
どうやって頑張っても、写真は、目の前の景色とは一緒にならない。最近は、景色の写真を撮るのは、いつまでも眺めていたい景色から去り難い気持ちに、似たようなものは持って帰れるから、と、ケリをつけるためだと思っている。

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