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人に「愛される」ことを避けるべく、心の底から「愛している」と伝えています。【チラシの裏に書く日記】

愛されるいうことについて、どう思いますか。


私は生粋の活字中毒であるため、読書をすることが好きだ。
小説、エッセイ、自己啓発、ビジネス、マインドや、仕事に関連するスキルアップの書籍、人間の変遷を辿る伝記や宗教学まで、ノンジャンルで読む。
小説は私が孤独でいたいとき、ちゃんと一人の時間を与えてくれるので大好きだ。


その中でも愛読書を挙げるならば、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」。
現代に即した文章に訳した新訳版も悪くはないが、旧訳版が好みである。


本書の中では、俗的な愛だの恋だのというよりはキリストの「隣人を愛せよ」の思想が根底にあり、どちらかと言うと友愛や母性についての構造や(当時の)政治との関わり方が語られている。

さて、話は逸れたが、今回は「愛する」という能動的な行為ではなく、「愛される」受動的な感覚について振り返ってみようと思う。


人に愛される、というのは誰しもが憧れる幸せの感覚だ。

たまに自分自身を「みんなに好かれている人」という偶像と重ねて、どうしようもなく希死念慮に追われることもあるが、現実問題として誰しもに愛されることなど出来るわけがない。


話は変わるが、先日、とある初対面の方とお会いした時に、「慈愛の心がある」とお褒めに預かった。素直に大変に嬉しかった。


友人にも、気味が悪いくらい優しすぎると評されることがある。

先述の近しい人らからの評価は、十二分に嬉しいものの、1つ明確な間違いがある。



まず、私は自分が愛されることに対して強く抵抗感がある。

自身は友愛や博愛の信念のもとで誰かの幸せに寄与できればと思う反面、自身がその施しを受けることがめっきり怖くなっているのだ。


恋愛でも友愛でも、「あなたの事が好き」だと言われると、とたんに「過大評価を受けるに値しない人間であるのに、素直に受け取っても良いのか。否、そんなはずはない。この人は私に何を求めているのかわからない。何か裏があるはずだ」「受け入れてしまえば、いつか愛されなくなってしまった時が来た時に必ず失望してしまう」とパニックに陥ってしまう。

目的のない無償の好意や愛は、底なしの死海に誘われているようで怖い。

それであれば、下心という明確なメリットがあり、その目的を達成するために好意を演出されるほうがよほど楽だ。


愛されていることを知覚して受け止める器の広さが無いのである。

攻撃は最大の防御という言葉は的を射ていると思う。

自分が愛されてしまったときにどう表現すればいいのかわからないという恐怖から逃れるため、先回りしてめいっぱい周りの隣人たちを愛すことで、自己を守っているのだ。



私は紛れもなく、他人を自己防衛に利用するために人の幸せを願っているような、まったくもって自己中心的かつ身勝手な人間なのだ。


もし、いつか「この人からの愛であれば、掛け値無しで全力で受け止められる」と思う人に出会えた時が来たとしたら。

シンデレラのように魔法にかけられかぼちゃが馬車に・ぼろの布切れが煌びやかなドレスに変わるように、人格がまるごと入れ替わってしまうような、天変地異を妄想する。


ディズニーランドのような隣人との出会いは、いつもどこかで渇望しているのかもしれない。


もっとも、ディズニーランドのような夢はいつかどこかで終わるので、自分で自分のことを愛して受け入れられるようにならなければいつかは破綻するのだが。



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