私の起業ストーリー(大学~起業まで)
前回まで、私の幼少期~高校時代の生い立ちについて、2回に分けて書かせていただきました。
読んでくださった方々、ありがとうございました。
そして、今日が最終回。
大学時代~現在の話です。
これに関しては、先日ワーママパパコミュニティである#はろこみ でプレゼンをさせていただいた資料を使って、少しお話させていただきます。
ワンオペでも!コロナ禍でも!起業しちゃった私の話
ここからは、起業までの道のりを大学時代から書いてみたいと思います。
もし、この記事をお読みの方で、はろこみのイベントに参加いただいた方がいらっしゃれば、少し加筆してるので、所々読み飛ばしながらお読みくださると嬉しいです。
私の遠回り人生
私は、大学時代から「起業してBIGになってやる」という野心があった人間ではありません。
大学時代、私は外国語学部に所属していたんですが、これといった夢がなかったんです。
得意だったのが英語しかなかったので、「英語教師になれればいいな」ぐらいにしか、思っていませんでした。
(単純すぎる発想)
でも、大学3年の時に、海外1人旅で行ったドイツで、それが変わります。
ドイツには、地理的な関係で沢山のアフリカ諸国からの難民や、研究生、労働者が多くいました。
ドイツに行くまで、そういうイメージがなかった私は、バックパック1つで旅していた間に、行先のパブ、カフェ、ユースホステルで、そうした人たちに会いました。
彼ら、彼女らに共通していえることは、
「学んだら、働いたら、自分の国に戻って、自国の発展に貢献する」
という夢でした。
当時、私にとってアフリカ大陸は、知識もなく、知り合いもいなかったので、とても遠い存在でした。
メディアを通して知る「貧困」「紛争」「多様な民族」ぐらいしかイメージのなかったアフリカだったのですが、人の熱量がすごい!
人生への貪欲さがすごい、と思って感銘を受けました。
一方、何の不自由もない国で育った私は、愛国心もないし、夢もない。
何なんだろう、この違いは😱😱
彼らの想いを聞くのは本当に心が躍る時間でした。
そして思ったんです。
「このエネルギッシュな人達と、将来一緒にビジネスやりたいな」
そして帰国後。大学3年のゼミで、途上国の開発援助について研究。
まず、アフリカのことを学ぼうと思いました。アフリカNGOでインターンも始めました。
でも、私は現地の人のために井戸を掘りに行きたいわけじゃなく、何かしてあげたいわけじゃない。
なんだろう、この違和感。
そこで、私は開発援助という切り口で彼らと関わりたいわけじゃないのだ、
と改めて思いました。
とりあえずアフリカへ行こう。
アフリカに行ける手段といったら、青年海外協力隊へ行くことぐらいしか思い浮かばなかった私。
就職せずに、とりあえずアフリカへ行こうと決め、協力隊へ応募。
結果、見事に「補欠」。
私が受けたのは「公衆衛生」という分野で、受験したのは、看護師さん、保健師さんばかり。
専門知識がない私にとっては、勝てる職種ではなかった。完全に選択ミスです。
それがわかったのが、卒業式2週間前。
じゃあ
「ビジネスやるなら、まずビジネスの世界へ行こう」
と2週間毎日面接へ行き、ITベンチャーへ就職しました。
こうして、私の社会人生活がスタートしました。
社会人スタート
私は、会社員時代、ずっと営業をやっていました。
ITベンチャーでの新規開拓営業職は、本当に多忙な毎日でした。
入社当日から、テレアポ。 笑
自己紹介もろくにできないのに、テレアポです。
そして、初日の退社時間、22時過ぎ。
そんなスタートでした。
そこから、家に帰らず銭湯行って出社する日、終電で帰る日が毎日。
目の前の営業ノルマ達成で精いっぱいで、完全に起業することなんて忘れていました。
人は「今」にフォーカスし過ぎると、思考停止し、未来が考えられなくなる。
そして、自分と対話する時間もなくなります。
どんどん、夢から遠ざかる日々。
でも、そのことにすら気づいてないほど、心が死んでいきました。人生で初めて血尿が出たのもこの時期です。
最後は、体調を崩して転職しましたが、当時一緒に戦った同期は、家族のような存在で宝物です。
売上達成に力を貸して下さった先輩方を含め、今もゆるい繋がりがあり、仕事自体は苦しかったけど、こうした仲間を得られたことが財産です。
夫が事業をスタート
大学卒業後、間もなく今の夫と結婚した私ですが、私が転職したタイミングで、夫が事業を始めます。
しかし、彼の両親が2年連続で他界。1年目はお母さん、翌年にお父さん。
貯めた事業費は、全部葬儀代に消えました。
(夫は長男なので、現地の風習により葬儀代何百万は全て葬儀代へ消えます・・・。)
毎年、葬儀と渡航費で200万程まとまった出費がある夫にとって、事業費をゼロから作っていくのは簡単なことではありませんでした。
日本で外国人として生きるのは、私たち日本人が思うよりもハードルが高く、ビジネスをする上でも、言語の壁、法律の壁で、簡単なことではありません。
おまけに、1年空いて、夫の祖母も他界。103歳という大往生。
両親が他界しており、男の親族で葬儀代を支払えそうな長男は夫だけ。
ということで、ようやく貯まってきた事業費は、再び全額葬儀代と渡航代に消えました。
私は当時、外資系に転職したばかりだったのですが、そんな彼を見ていて、「会社員は辞められない」「私が稼がねば」と思っていました。
最初はやりたくてやっていた仕事のはずが、いつからか「生活のための仕事」になっていました。
そして、仕事も激務になり、部署を掛け持ちするほどに。
そんななか、妊娠、出産。
事業が思うようにいかない夫は、仕事で祖国に帰ると、商機を伺うあまりに現地に6か月滞在になることも多く、私は妊娠中から1人で過ごすことが多かったです。
長男が生まれてからは、夫婦関係が悪化し、産後クライシスになりました。
苛立つ私に、帰ってこない夫。
もはや、仕事だ起業だ云々以前に、ベースとなる家族ががたがたの状態でした。
初めての育児は、本当に苦しかった。
長男は感受性豊かで、ささいなことでも寝ない。
夜中は5時間連続で起きてることもあり、夜中彼を抱っこして、親子で泣きながら近所を散歩したこともありました。
自分のことを考える暇などない・・・・。
「今この子をどうやって泣き止ませよう?」
という「今」に立ちはだかる壁を、一個一個クリアするので精いっぱいでした。
職場復帰すると、今度は
「目の前の仕事をして、お迎えに間に合うか?」
の分単位で生きる生活。
子持ちでワンオペ女性が起業なんて、無理ゲーだと思ってました。
でも、結局は今自分で仕事してますが、果たして何があったのか?
起業のきっかけ
そのきっかけは、色々あります。1つではありません。
1)親友の死:
親友が、2016年に32歳の若さで亡くなりました。
死因は、癌でした。
抗がん剤の効かない特殊な癌で、見つかった時は既にステージ4。
若かったので、転移も早く、癌だと知ってから1年も経たずに全身転移し、帰らぬ人となりました。
大好きだった高校時代の親友だったので、本当に信じられず。
働きながら大学にも通い、院内学級の先生になるという夢を持っていた親友。
最期は、「同じ種類の癌と闘う人のために」と、効かない抗がん剤を試したり、自分の命を完全に燃やしきり、本当に立派な生き様でした。
私は、彼女の死後、彼女のお母さんから写真をもらい、自宅に飾っています。
私はその写真に向かって毎日
「私は、あなたに恥じない生き方をできてるかな?」
と問いかけていました。それは、同時に自分への問いかけでもありました。
そして、「命があって健康な私が、やりたいことやらないでどうする?!」と思うようになりました。
でも当時、2人目が1歳になったばかり。
夫も海外と日本と行ったりきたりで、私はワンオペの中、起業というリスクを取るという選択肢は考えつかなかった。
そこから、2018年に3人目を妊娠、出産。
2)ワーママはるさんとの出会い
2019年4月、ちょうど私が育休復帰直前に、音声メディアVoicyの「ワーママはるラジオ」に出会います。
ワーママはるさん、ご存じですか?
私の2つ上の方なのですが、新卒期から外資系企業に勤め、管理職も経験し年収1,000万稼いでいたという、ワーママさんです。
現在は、会社員を卒業され、ヨガスタジオを運営していらっしゃいます。
はるさんは、ワーママのモヤモヤの言語化にすごく長けていらっしゃり、私たちワーママの心を言葉にしてくださる方。
私がこのラジオに会ったのは、35歳。
「40歳」というのが見えてきて、「40までこのまま働いて、私に何が残るんだろう?」と自問していた時期でした。
はるさんのラジオを習慣化するうちに、手帳に自分の思考を書くようになりました。
すると、今まで「自分が何を大切に生きていきたいか」なんてわかってなかったけど、段々自分がわかってきたんです。
そして、自分がアクションを起こさない限り、誰も自分の人生を生きてくれないし、何も変わらない。
と、感じるようになりました。
そこから、ストレングスファインダーを受けて自分の資質を理解したり、少しずつ「自分」に目を向けるようになりました。
3)コロナ
そして、今年のコロナ。
ちょうど在宅勤務で少し時間ができたので、発売されたばかりの、やぎじんぺいさんの「やりたいことの見つけ方」という本で、自分のことを棚卸してみました。
そしたら、私はやっぱり夢を追いたい。
私が魅了される、アフリカの輝く「人間」の魅力をモノを通して伝えたい。
と再認識するようになりました。
それと同時に
「自分の今やってる仕事って、自分じゃないと伝えられないものなのか?」
「本当にやりたいの?」
「このまま定年迎えて幸せか?」
と自問し始めました。
そして、答えは全て、NO。
だから、思い切って辞めた。
嬉しいことに、当時仕事で扱う製品カテゴリーを2倍に増やされていた私。
やろうと思っていた輸入販売業は、とても片手間にできる量ではなくて、ただでさえ3人ワンオペな私には時間が無い。
だから、思い切って辞めてしまったんです。
そこから、サプライヤー選定、サンプル輸入、輸入法律調べ、事前手続き等、パッケージデザイン依頼、素材選定等行いました。
でも、ストレングスファインダーの「最上志向」持ちの私にとっては、いくらこうした準備をしたところで、
「ホームページをもっと見栄えよくしなければ」
「もっと長期プランを立ててから起業した方がいいのでは?」
次々と思い浮かぶ「こんなんじゃ世間に出せない、もっとやらなきゃ」。
このままだと、一向に開業できない😱
そう思ったので、見切り発車で強制的に稼働するために、
10月にオンラインショップを立ち上げ開業。
今は、ガーナ産のオーガニックなドライフルーツを取り扱っています。
粗削りで始めたので、つっこみどころ満載ですし、販促面でやることはまだまだ多い。
正直、まだ生活費全部払えるほど収益化もしていません。
ですが、この2か月、本当に忙しかったけど充実していて、仮に1年後、全く食べていけなくなって再就職したとしても、後悔はありません。
最悪、パート掛け持ちしたって生きてはいけるし大丈夫って思えます。
今は「死ななきゃいっか」にレベル下げて生きています。
外車に乗ってるわけでも、都心のタワーマンションに住んでるわけでもないので、守りたい地位も地位財もありません。
こっから加速していこうと思っているので、再就職にならないように死ぬ気で頑張りますし、
まだまだアフリカで発掘されずに輝いている起業家は沢山いるので、そうしたヒトとつくられるモノを紹介しようとする人も少ないので、
アフリカの人々のためにも、今のお客様のためにも、自分のためにも、廃業しないように持続していけるよう頑張ります。
以上、超長文ですが、私が起業に至るまでのお話でした。
それを踏まえて、私からこれを読んでる皆さんへメッセージです。
読者の方へメッセージ
・自分と対話する時間を持つ(毎日30分):
私は、自分のトリセツを理解してなくて、現状にしがみついてる時期が長かったです。
自分を理解していれば、どんな道でも選択肢が見えやすくなる。
毎日30分でも自分と対話する時間を持って欲しいなって思います。
・年齢を言い訳にしない
思い立った時がスタート。
「今日があなたの人生にとって、一番若い日」
という言葉があるように、今始めなければ、明日も明後日も、1年後もずっと現状のままです。
今は還暦後に起業する方もいる。遅すぎるということは全くない。
行動してみれば、具体的にやることが見えてくる。
迷ってるなら、飛び込んでみることも大事。
・死ななきゃいい。命あるうちは、何でもできる。
あと余命3か月、と思って生きてみる、ということに尽きます。
「余命宣告されてからじゃ残るのは後悔だけ」なんて、悲しすぎるので。
以上。
何か始めたいと思ってる、新しい道へ進もうと思っている方、現状にモヤモヤしている方へ、私の話が少しでも参考になれば嬉しいです。
ありがとうございます。いただいたサポートは事業拡大への大きな力にさせていただきます。