She's so wonderful

私は、自分の年齢を隠さない。

年齢なんてただの記号で、“自分が何年生きて来たか“を単純に表す数字だと思っている。

私が自分の歳を言うと、あまりにサバサバ話すものだから、男性も女性も大概は驚く。
子供がいると言うと、更に驚かれる。
それは、実年齢よりも多少若く見られるということよりも、私が“働くお母さん然“としていないことに拠る所が大きいのだと思う。

なぜ女性は、歳を取るにつれて自分の歳を公表することを恥ずかしいと感じてしまうのだろうか。
“女は若ければ若いほど良い“という偏見と呪縛は、いまだ根強く存在しているのだと事あるごとに感じる。

それから母性。
母になったら、片時たりとも“母“を休んではいけないのだろうか。
自らの女性性を葬り去らなければならないのだろうか。


今年の初め、少し遠い取引先へ訪問する用事があった。
隣県なのに、新幹線と在来線を乗り継いで2時間以上かかる場所なので、日帰り出張と呼べるくらいのちょっとした遠出。

担当営業は私より少し歳下の女性。
彼女とは入社して直ぐから割と気が合い、顧客訪問とはいえ何となく“女子旅“的なノリで、仕事を終えた帰りの移動中も楽しくお喋りしていた。

その日はあいにくの曇天で、とても寒かった。
在来からの乗り継ぎで少し時間が空き、私たちは駅ナカのカフェで温かいミルクティーをテイクアウトし、新幹線のホームに立った。

彼女は私の以前の仕事や、8年もブランクが空いたこと、子供たちのことも知っている。
ホームで重く垂れ込めた雲を眺めながら、彼女は“改めてなぜキャリアを再構築しようと思ったのか訊きたい“、と切り出した。

彼女は30代後半で、結婚して8年になる。
MBAを取るために大学院へ通ったり、今は興味のある学問のために、ある専門学校に通っている。

ご主人との暮らしは、とても穏やかで楽しいという。
けれど年齢的にもリミットが迫っているし、両家からのプレッシャーもあり、子供を産むかどうかの選択をそろそろしなければならないと思っている、と。

『私が2つに分かれて、このまま自由に暮らしてゆくのと、子供を作るのと、両方が出来たら良いのにって、時々思うんです』

今とても楽しいというご主人との生活も、子供が生まれたら同じ関係性ではいられなくなる。
それは少し寂しい、と。

子供を産むと決めたら、今までの生活には2度と戻れない。
産まないと決めたら、後で『産んでみたかった』と後悔する日が来るかもしれない。
どちらを選んでも、振り返ったときにはもう手遅れ…。

彼女の想いは、同じ女性としてよく分かる。
でも私がいま、時間を巻き戻して10年前に戻れたとして、子供のいない人生を選択したほうが良かった、とも言い切れない。
それはあくまで、シミュレーションでしかないから。

迷う彼女に対して、私は良いアドバイスが出来そうになかった。
子供が居なかったら、と今まで一度も考えたことが無いかと言えば嘘になる。
子供を産んだからこそ得ることの出来た幸せもあるけれど、それを単純にキャリアと天秤にかけることは、なにかが違う気がする。

何かを選択することは、一方で何かを犠牲にすることだ。

女性はとりわけ、母性を蔑ろにするなとか“母親らしく“とか、母であることを求められる。
そして、男性からは女性として見られなくなる。

私が何度か以前に書いてきた“分人主義“に基づいて考えれば、この問題は解決するのかもしれない。
けれどもまだ、私自身の中でも“分人“の使い分けは出来ていると言い難いし、社会的・対外的立場において女性が自らの母性と女性性を器用に使い分けるということは、想像より遥かにハードルが高いと思っている。

確かに子供を産むことは女性にしか出来ないことで、尊いことだとは思う。
でも子供を産むこと自体が偉いとは思わないし、産まない選択をしたから女性失格だとも思わない。
私は彼女がどちらを選択したとしても、素晴らしいことに変わりはないと思う。

一度しかない彼女の人生は、彼女自身が作っていくものだから。


帰りの新幹線で、女性と社会の同調圧力や本質的な自立について、私が降車するギリギリまで話し込んだ。
明確な答えは出せなかったし、良いアドバイスも出来たとは言えなかったけれど、翌週オフィスで顔を合わせた時、彼女は少し晴れやかな顔をしていた。

“自分なりの方向性が少し見えた“と言った彼女の答えを、私はまだ聞けていない。
私の契約の延長を喜んで真っ先にメールをくれた彼女と、早くまた話したいねと約束をした。

その日が来るのを、私は楽しみにしている。

今度は、晴れた空の下で話そう。


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