君と僕のあいだにある

40数年生きてきて、“君“と呼ばれたことはほんの数回しかない。

歌や小説や映画のタイトルでは、“君“は違和感なく受け止められるのに、どうも実際に誰かに“君“と呼ばれると、上から目線だとか見下されていると感じる、という意見がネット上でも多い様子。

確かに、目上の男性から“君“と呼ばれたら、そう受け取りがちかもしれないし、若い頃に同年代の男性の口から“君“という言葉が出て来たら、『キザな人だなぁ』と思ってしまったと思う。

でも最近、私に呼びかけるための“君“という言葉をメールで見たのだけれど、悪い気はしなかった。
それどころか、むしろ嬉しく感じた。
多分それは、私を尊重してくれる雰囲気と、その人の品性が反映されていたから。


“僕“という一人称を使う人が好きだ。
思春期から聴いてきた歌や、読んできた本の影響もあるのかもしれない。

比較的、体育会系のひとは“俺“を多用する傾向にあると思うのは私の偏見だろうか。
器用にTPOで使い分けているひともいるだろうから一概には言えないけれど、“僕“のほうが知的な響きがある気がする。

そして普段“僕“を使っているひとが、不意に“俺“を使った瞬間に、ドキリとさせられる。
少しだけ垣間見える男性っぽさに、色気を感じるから。


このところ、立て続けに翻訳レビューを行なっていた。
それで不意に『英語だと一人称は“I“だし、二人称は“You“よね…』と思いついて、日本語の多様な一人称、二人称について少し考えてみた次第。

前の会社で10年前にも同じような事を考えていたのだけれど、一口に“翻訳“と言っても、その幅はかなり広く、“抄訳“の場合もあれば、“意訳“、更に“コピーライト“までも含まれるため、企業のブランドやイメージ戦略を担う責任はかなり重い。

グローバル企業におけるブランディングでは、元々のブランディングコンセプトを各国でズレの無いよう踏襲しながら、出来る限り正確にその国の言語で伝えるということに大半の労力を割く事になる。

コンテンツにもよるけれど、例えば昔は洋画や洋楽のタイトルには、ほぼ全て邦題がつけられていたのを覚えている方も多いのでは無いかと思う。
原題を言われてもピンと来ないのは致し方ないにしても、原題を知って『わー、、何でこんな邦題つけちゃったの?!』と思ったりするのは、この“ズレや齟齬の無いよう“というところが抜けていたり、他の思惑(配給会社や翻訳者のエゴ)が働いた結果だと思っている。
逆に、原題が物凄く地味(!)で、素晴らしい邦題がヒットの要因になったものも多数ある。

“意訳“や“コピーライト“が全て駄目と言い切れないのは、こういった事例が多々あるからで、ただしその匙加減でイメージが大きく変わる事も意識しておかなければならないのが、一番難しいところ。

日本語には他の言語に無いような表現も多く、先の“君“や“僕“のように、たった一つの単語でさえイメージがガラリと変わるものも少なくない。
だからこそマッチする言葉を探すのは面白くもあり、一方で責任を重く感じるのだ。

英語力の高いひとが、良い翻訳を出来る訳ではない。
寧ろ日本語を磨かなければ、的確な表現は出来ない。

多分、いつまでも私は今の仕事の出来に満足することはないのだと思う。
でもいつか、企業のアイデンティティがどんなコンテンツからも見えるような、揺るぎないブランディングを確立したい。







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