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Lost in translation

新しい会社の同僚たちと、しばしばオフィスで顔を合わせる機会が多くなってきた。
日本のIT業界はまだまだ男性比率が高い。
外資系といえどもその傾向は強くて、その中にあってもマーケティングは元々女性比率が高い部署である上に同年代も多いということも相まって、何となく連帯感が醸成されつつある。

そうは言っても、私のように子どもがいるのはあと一人だけで、他はDINKSかシングルなので、時間の自由度という意味では部署で一番制約があるのが私、ということになる。

年末にこの女性だけが集まる忘年会があって、ひとりの同僚が“Solaさんはさ、なんか働く女性の完成系っていうか、全て手に入れてて羨ましいよ“と言った。
前後の話を省いてここだけ文字で書くと嫌味に見えるかもしれないが、彼女の言いたかったことをフォローすると決して嫌味などではなく、寧ろ好意的な内容だったと思う。
でも、外から見える”私”と私が認識している”私”はだいぶ乖離していて、どうも居心地が悪い。


同僚の言葉を受けて、ふと思い出して「Lost in translation」を観てみる気になった。
アカデミー賞で4部門にノミネートされ脚本賞を獲ったこの映画は、タイトルは聞いたことがあったけれど興味が無くて当時はスルーしていた。

だいぶ前に友人が、“とっても分かりにくい内容と思うかもしれないけど“と言いつつ、きっと私ならこの映画が伝えたかった事が分かるはずだと、強く勧めてくれたのに、なかなか機会が無くて観ることができずにいたのだ。


タイトルはダブル・ミーニングなのでは無いかと思う。
一つは、アメリカ人俳優がCM撮影現場で、日本人カメラマンの意図が理解できずに戸惑ってしまったように、通訳の過程で大切な意味が失われてしまうという本来の意味。

もう一つはメタファーで、”自分の心を誰にでも分かる言葉に翻訳しようとしても、上手く説明出来ずに大切なことが失われてしまう”、ということ。

その戸惑いや孤独に共感し、全て言葉にしなくても理解してくれる人に出逢えたことで、2人には特別な感情が生まれる。
これは以前書いた「マチネの終わり」の2人にも通じることだと思う。

この映画の主人公2人も、外から見たら幸福そのものに見える。
けれど2人とも結婚生活に不満があり、本当の自分の思いをパートナーや周囲には理解して貰えず、孤独を抱えている。
正直なところ確かに映画そのもののストーリーは面白いとは言えないのだけれど、本質的なテーマについては共感できるところが多かった。


最近ちょっとした言い合いになった時に夫が、“ひとりで生きて行けば良いじゃん。子供2人いても困らないくらい収入もあるんだし、キャリアも形成できたでしょ“と言った。
咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
家族という生活共同体を回してゆくこと以前に、いつか二人の生活に戻った時のことを、その時にはもう心が離れてしまっているだろうという予感を、感じたから。

夫は私がキャリアを再構築することを、応援してくれていたはずだった。
それでも、いつも時間をやり繰りしてパズルを埋めるように時間に追われているのは私の方だという思いが拭えない。
何度思いを伝えても、彼にはそれがうまく伝わらなかったし、理解してもらえることを半ば諦めてきた。
私が甘え下手なのは今に始まったことではないし、甘え方も分からない。

色んなことが上手く言葉に出来なくて、押し黙った。
どう表現しても夫にはいつも思っていることの半分も伝わらないし、その理解の齟齬を解こうとしても、上手く行かないのだから。


数日経って、映画を教えてくれた友人に事の顛末を話した。
“自立しろっていう割に、結局、自立しきれてない女の方が可愛がられて、上手く庇護されて生きていくんですよ“
”Solaさんは独りで生きていけると思う。でも、そういうのって多くの男性からすると「俺のいる意味って?」って思われちゃうし、想いを理解して貰えないですよね”

自分はだから、この映画のように言葉に出来ない思いを共感できる相手に出逢わない限り、ひとりでいるつもりなのだ、と少し歳下の友人は言った。


外から見える幸福は、あくまで仮の姿だ。
今日もまた何事も起きなかったかのように、穏やかに日々が流れてゆく。

私は相変わらず、「何もかも手に入れた幸せな人」として同僚たちの目に映っているのだろうか。
私は、誰と一緒に居たいのか?
それが今は少し、見えなくなっている。

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