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「#02」新たなる旅路の選択

みなさま、こんにちは。カンボジアシヌークビル在住のそくあんです。
前回のあらすじはこちら。


「自分はどうしてみんなと肌の色が違うのだろう。
どうしてお父さんや、お母さんは日本語を話せないのだろう
自分と他の人の違いについて」考えるようになった私。

1975年4月17日から1979年1月17日の3年8か月の間にポル・ポト派政権による大規模な虐殺が行われ1979年クメール・ルージュ政権崩壊後の1981年タイサケオ県カオイダンキャンプ内で3人兄弟の長女として生まれた私


「新たなる旅路の選択」




タイ難民キャンプ

1980年に入籍した両親はキャンプ内で3人の子宝に恵まれます。

カオイダン( Khao-I-Dang Holding Center)はタイ王国サケーオ県、アランヤプラテート群北方20km に位置したカンボジア難民キャンプです。
ここはタイ内務省とUNHCRによって運営されておりました。
教育や医療はタイ政府及び国際支援機関によって供給され食料や水は毎日搬入されており世界各国のボランティア団体が活動をしていました。

フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)

年表

1979年10月19日/カンボジア難民の受け入れを宣言1979年11月/タイ内務省はUNHCR によって難民キャンプの建設を承認
1979年11月27日/赤十字国際委員会の病院運営開始
1979年12月31日/人口 84,800人
1979年11月−1980年1月/毎日平均1,600名の難民が到着
1980年1月24日/タイ政府は受け入れを終了
1980年3月/人口 160,000人
1980年8月6日/第4代国際連合事務総長が訪問
1985年1月27日/第5代国際連合事務総長が訪問
1985年6月6日/アメリカ合衆国第39代大統領と妻が訪問
1986年12月/タイ政府は閉鎖を発表。
1989年12月/人口 11,600人
1993年3月3日/閉鎖

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カオイダン難民キャンプの封鎖

1986年12月、タイ政府がカオイダン難民キャンプの閉鎖を発表し、私たち家族は新たな第三国への定住先を選択する必要が生じました。

以下の国々が名簿に挙げられました。

この重要な選択の中で、父は子どもの将来や自身に合った最適な移住先を見つけるために慎重になります。

  1. アメリカ合衆国

  2. カナダ

  3. 日本

  4. 自主帰還



日本定住を許可された人々の手配とIOMの役割


1979年11月2日に日本政府は福祉財団内に難民事業本部を設立し、インドシナ難民の定住促進施設である「姫路定住促進センター」を1979年12月11日に開設しました。また、続けて1980年2月29日には「大和定住促進センター」が開設されました。さらに、1982年2月1日には「大村難民一時レセプション」も開設されたとされています。

1980年1月10日から26日にかけて、インドシナ難民として日本定住を希望する人々に対し、難民事業本部が関係省庁や関係機関と協力して調査団を派遣しました。調査では、本人や家族の状況、健康状態、職歴などが確認され、外務省を経由して定住許可が得られた場合、国際移住機関(IOM)の手配により来日が可能となりました。


日本行きを待つ子どもたち。

実は、
私たち家族は定住先の第一希望に父の実姉がすでに住んでいるアメリカ合衆国に申請しましたが、身元保証がはっきりしていなかったために却下されました。
次に、カナダに定住する名簿に私たちの名前が載っていましたが、母が肝臓病を患っており、カナダでの治療が難しいという理由で却下されました。
同時に、日本での定住申請時に同じ病気と診断されましたが、日本での治療を優先してくれたため、日本への定住が決まりました。


日本語勉強中の母と59期生友人。


未来へ向かう道


この頃サイゴン陥落と南ベトナム政府の崩壊等によって、インドシナ三国から大量難民が流出しました。
1975年5月12日にボートピープルが大量発生し日本に上陸したことも社会問題の一つとなりました。
ベトナム難民対策が先に閣議了解され、続けてカンボジア難民対策と閣議了解される事態になりました。

私たちはボランティア団体の案内の元、1987年9月1日に飛行機で日本に向かいます
初めての飛行機の経験で両親は不安な表情を浮かべます。
子どもたちは事態を理解していませんが楽しそうな雰囲気。
上空は涼しいというより肌寒く感じ、身体をぶるぶるしていたら客室乗務員のお姉さんが毛布を渡してくれました。
食事は初めて食べる味に少し戸惑いながらも、上空を飛んでいた機体は少しづつ地上へ下降していきます。
機内で大きな歓声が沸き起こります。
どうやら無事に成田に到着し、
大型バスとボランティア団体が難民を暖かく歓迎し希望に満ちた新たな生活の一歩となります。

バスに揺られて着いたのは2階建てのプレハブ棟です。
戦乱から逃げてきたインドシナ難民の受け入れ先として日本政府が運営し、
カンボジア/ラオス/ベトナムの三国が施設に入所し新たな地での生活が始まります




次章- 大和定住促進センターの生活-


なぜ私が日本を離れてカンボジアのシアヌークビルに移住したのかに興味を持ってくれる方、将来の海外移住を考えている方や子供の教育について考えている方、またはカンボジア全般に興味がある方は、ぜひ私のnoteをフォローしてくださいね。

最後まで読んでくれてありがとうございます☺
SOKOEUN

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