見出し画像

【科学者#081】科学界のため最前線に立ち続けた量子論の父【マックス・プランク】

第51回目で紹介したリーゼ・マイトナーは、1907年の秋にベルリン大学に進学します。

その時指導していたのがマックス・プランクなのですが、プランクははじめは女性の社会進出に対してとても否定的でした。

その後マイトナーを認め、とても協力的になってくれるのですが、そんなマイトナーはプランクの誠実な人となりに感銘を受けます。

今回は、科学界のため最前線に立ち続けた量子論の父であるマックス・プランクを紹介します。


マックス・プランク

マックス・プランク

名前:マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク
  
(Max Karl Ernst Ludwig Planck)
出身:ドイツ
職業:物理学者
生誕:1858年4月23日
没年:1947年10月4日(89歳)


業績について

1859年にグスタフ・キルヒホフは、黒体が放射する熱平衡分布は温度に依存することを明らかにしました。

そして翌年、空洞放射が理想的な黒体放射を実現することを示します。

グスタフ・キルヒホフ

さらに1896年には、ヴィルヘルム・ヴィーンが黒体放射におけるエネルギー分布に関するヴィーンの放射法則を提案します。

ヴィルヘルム・ヴィーン

しかしこの法則は、高振動数の領域では測定値をよく説明することができたのですが、低振動数の領域では合いませんでした。

そこで、1900年にプランクが低振動数の領域でも測定値と一致するようにヴィーンの放射法則を修正する形でプランクの法則を提案します。


生涯について

プランクの父親は法学者で、母親は牧師の家系でした。

母親は父親の2番目の妻で、2人の間には5人の子供が生まれました。

父親には前の妻との間に2人の子供がいたので、両親と子ども7人の合計9人が共に暮らしていました。

1867年の9歳の時には、ミュンヘンのマクシミリアン・ギムナジウムのラテン語学級に転校します。

プランクは母親の影響もあり音楽が好きで、特にピアノの演奏に関して才能がありました。

そのため、音楽の道に進もうか迷ったときに音楽家に助言を求めたことも
あります。

その時に、音楽家から「助言が必要なくらいなら音楽はやめた方がいい」と言われ音楽の道をあきらめたのですが、その後も趣味として音楽を続けます。

ちなみにプランクは、品行方正で勉強熱心だったため、教師たちからの評判がよく人気者でした。

1874年の17歳のときにはミュンヘン大学に進学し、そこではアカデミー合唱協会に入り、将来物理学者になるカール・ルンゲと出会い親しくなります。

1878年にはベルリン大学に移り物理学を専攻し、熱力学を勉強していきます。

大学では、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツとグスタフ・キルヒホフのもとで学びます。

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ
グスタフ・キルヒホフ

しかし、ヘルムホルツの講義は退屈で、キルヒホフの講義は何も面白みがなかったため、プランクは満足できず自分で熱力学を学びます。

その中で、ルドルフ・クラウジウスの論文に強い影響を受けます。

ルドルフ・クラウジウス

その後はミュンヘン大学に戻り、学位論文を書き1879年に学位を取得します。

1880年には大学教授の資格を得るのですが、教授職の空きがなく無給の私講師として過ごします。

1885年にはキール大学の員外教授になり、1887年の29歳の時にマリー・メルクと結婚し2男2女をもうけます。

1889年には、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの推薦によりベルリン大学の員外教授になり、1892年に正教授になります。

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ

ヘルムホルツはプランクよりも37歳年上だったのですが、この頃にはプランクはヘルムホルツのことを尊敬するようになっていました。

1894年には、ヘルムホルツの推薦によりプロイセン科学アカデミーの正会員になります。

1905年には、アルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を発表するのですが、プランクはいち早くアインシュタインの論文を取り上げます。

アルベルト・アインシュタイン

そして1906年には相対性理論を擁護し、このことにより科学者の間に相対性理論が広まっていきます。

1909年には、アメリカのコロンビア大学の講師を務めます。

同じ年の1909年には妻のマリーが結核で亡くなってしまうのですが、1年半後の1911年の50歳の時にマリーの姪であるマルガ・フォン・ヘスリンと再婚します。

1912年にはプロイセン科学アカデミーの常任理事を務め、1913年にはベルリン大学の学長を務めます。

同じ年の1913年には、プランクはアインシュタインをベルリンに呼び寄せるために、直接アインシュタインを訪ねたり、地位を用意し、呼び寄せることに成功します。

1914年には第一次世界大戦が起こり、プランクははじめ戦争に賛同します。

1914年10月には、エルンスト・ヘッケル、フリッツ・ハーバー、ヴィルヘルム・レントゲン、フェリックス・クラインなどと共にドイツ戦争を支持する「93人のマニフェスト」に署名します。

エルンスト・ヘッケル
フリッツ・ハーバー
ヴィルヘルム・レントゲン
フェリックス・クライン

その後プランクの2人の息子は戦争へ行き、2人の娘は赤十字の訓練を受けます。

プランクは、戦争が進むにつれて戦争への考え方が変わっていき、戦争に対して賛同できなくなっていきます。

そして、非公式で「93人のマニフェスト」について謝罪をします。

1916年5月には長男が戦死し、その後次男はフランスの捕虜となり、2人の娘は産後に亡くなってしまいます。

1918年にはノーベル物理学賞を受賞します。

1926年10月1日の68歳の時にはベルリン大学の教授を退職し、後任は第57回目に紹介したエルヴィン・シュレーディンガーが引き継ぎます。

1929年にはマックス・プランク・メダルが創設され、第1回目はプランクとアインシュタインに贈られます。

1933年1月30日にはアドルフ・ヒトラーがドイツ帝国宰相に就いたことで、ユダヤ人の迫害が始まります。

プランクはドイツの科学を守るために若者を指導する方が重要であると考え辞職せずに働き続けます。

1933年3月には、アメリカにいたアインシュタインがドイツへの帰国を拒否し、さらにナチスを批判したことで、プランクは悲しみます。

プランクは手紙で「これによってあなたと同じ民族、同じ信仰を持つ人たちがいっそう抑圧されてしまうだろう」とアインシュタインへ送ります。

1938年12月22日には、プロイセン科学アカデミーの常任理事を退きます。

プランクは、1930年代後半からは政治批判を続けていき、アインシュタインに対しては擁護する立場を取り続けます。

その後は、空襲が激しくなってもプランクはベルリンに居続けたのですが、最終的には妻と共に疎開します。

ちなみにベルリンの家は、1944年2月15日の空襲により焼失したため、プランクの日記や書簡は失われてしまいます。

1944年7月23日には、ヒトラー暗殺計画に加担した疑いで次男が処刑されてしまったことで、子供すべてが先に亡くなってしまいます。

その後、ゲッティンゲンへ移住して敗戦を迎えるのですが、その時は歩くのもままならない状態でした。

1947年1月には肺炎にかかり入院し、その年の10月4日に亡くなってしまいます。


プランクという科学者

プランクは謙虚な性格で、自らの功績を語ることは少なかったです。

プランクを慕っていた第51回目で紹介したリーゼ・マイトナーはプランクの講義について、「はじめはどこか人間味に欠け、あっさりしているような気がした」と言っています。

その後、プランクやその家族と親しくなってからは、プランクの誠実な人となりに感銘を受けるようになります。

さらにマイトナーは、「先生は人並みはずれて純粋なたちで清廉な性格でいらっしゃって、そういうお人柄が、飾り気のない、偉ぶらない外見とぴったりでした」とも言っています。

プランクは小さい頃から品行方正で勉強熱心で、最後まで科学に向き合い、そしてドイツの科学界を守るため力を尽くします。

今回は、科学界のため最前線に立ち続けた量子論の父であるマックス・プランクを紹介しました。

この記事で、少しでもプランクについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?