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【科学者#071】12歳で教師となった、自分自身を研究した科学者【ジョン・ドルトン】

物質を2つに分けて、それをまた2つに分け、これを最後のひとつになるまで繰り返して、もう分けることができない最小の単位として原子であるという原子論という考え方がありました。

しかし、この考えは最初は科学者たちからは受け入れられませんでした。

しかし、この考えを支持する立場を取っていたのが第59回目で紹介したルートヴィッヒ・ボルツマンになります。

今回は、12歳で教師となった、自分自身を研究した科学者であるジョン・ドルトンを紹介します。



ジョン・ドルトン

ジョン・ドルトン

名前:ジョン・ドルトン(John Dalton)
出身:イギリス
職業:化学者、物理学者、気象学者
生誕:1766年9月6日
没年:1844年7月27日(77歳)


業績について

ドルトンは原子論を提唱するのですが、ドルトンだけが提唱したわけではありません。

一番古いものだとソクラテス以前の哲学者たちにより考えはじめられました。

その後、様々な科学者がこの原子論について考えたのですが、16世紀以降第28回目で紹介したアントワーヌ・ラヴォアジエやドルトンなどにより、物質の構成要素として元素の概念が提唱されました。

ちなみにドルトンの原子論は、すでに確立していた質量保存の法則、定比例の法則、そしてドルトン自身が提唱した倍数比例の法則に基づいて提唱しました。

その後原子論は、ボルツマンやエルンスト・マッハなどにより激しい論争を繰り広げるのですが、アルベルト・アインシュタインのブラウン運動やジャン・ペランによる実験的検証により、何らかの粒子が実在することが分かります。

そして、この原子論の論争にはいったんの決着がつきます。

ボルツマン
アインシュタイン
ジャン・ペラン

現在では原子が陽子や電子など、さらに小さいもので構成されていることが分かり、原子という概念は分割不可能な最小単位ではなく、元素の最小単位に用いられています。



生涯について

ドルトンはクエーカー教の一家で、機織り職人の息子として誕生します。

はじめは小学校で教育を受けるのですが、1778年に教師が引退したため、12歳でドルトンは教師になって教えることになります。

15歳の時には、兄と共に近くのケンダルでクエーカー教徒の学校を運営します。

1794年頃にはマンチェスターに引っ越し、盲目の哲学者、博物学者であるジョン・ゴフの下で学びます。

その後は科学の知識を身に付け、新たに創設されたマンチェスター・アカデミーで数学と自然哲学の教師になります。

1800年には大学の財政が悪化したため職を辞めなければいけなくなり、数学と自然哲学の家庭教師として働きだします。

若い頃は、イーグルスフィールドのクエーカー教徒で、気象学者、機器製作者であるエリヒュー・ロビンソン(1734ー1809)から数学と気象学の影響を強く受けます。

1787年からは、気象学に関する日記をつけ始め、57年間で20万以上の気象観測記録をとります。

1794年には、自らの色覚(しきかく)を題材にした論文を発表します。

さらに1795年にはドルトンは自らの眼球組織を調査し、中波長の錐体細胞が働かないことが判明します。

ドルトンはさらに自分と親族の色覚を研究し、自分が先天色覚異常であることを発見します。

そして、のちに色覚異常を意味する「ドルトニズム」の語源となります。

1803年には、ドルトンの法則(分圧の法則)を提唱し、論文は1803年10月21日に発表され、そして1805年に出版されます。

1804年には、ロンドンの王立研究所で自然哲学の講師を務めるのですが、声が聞き取りにくく、説明も要領を得なかったので、講師としては優秀ではありませんでした。

ちなみに、1809年から1810年にも王立研究所で講師を務めます。

ドルトンが描いた原子や分子

この頃には科学界では有名になっていたドルトンは、1808年に初めて原子論について書きます。

そして、トマス・トムソンに原子論について伝え、トムソンのシステムオブケミカルフィロソフィの第1巻の第1部にドルトンの原子論が載ります。

トマス・トムソン

1810年には、第24回目で紹介したハンフリー・デービーが王立協会のフェローにドルトンを推薦したのですが、経済的事情からドルトンは辞退しています。

しかし、1822年にドルトンが知らないうちに王立協会のフェローに選出されてしまいます。

1826年にはロイヤル・メダルを受賞し、1818年にはフランスの科学アカデミーの通信会員に選出されます。

1830年には、亡くなったデービーの代わりにフランスの科学アカデミーの外国人会員に選ばれます。

1837年には脳梗塞を患ってしまい、1838年には2度目の脳梗塞で言葉を話すことが困難になってしまいます。

1840年には、リン酸塩とヒ素に関する論文を王立協会に提出したのですが、出版を断られてしまいます。

そのため、激怒したドルトンは自分で出版します。

1844年5月には3度目の脳梗塞になり、1844年7月27日にマンチェスターの自宅のベッドから落ちて亡くなっているのを同居人が発見します。


ドルトンという科学者

ドルトンは1度も結婚もせず、友人も少なかったと言われています。

年に1度、湖水地方に旅行に出掛けるときと、時々ロンドンに出掛けるとき以外はマンチェスターで研究に明け暮れていました。

ちなみにドルトンの弟子は、第62回目で紹介したジェームズ・プレスコット・ジュールになります。

ドルトンは12歳という若さで教師となり、その後は様々なところで学びながら、ドルトンの法則や原子論を提唱し科学界に大きな影響を与えました。

今回は、12歳で教師となった、自分自身を研究した科学者であるジョン・ドルトンを紹介しました。

この記事で少しでもドルトンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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