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【20年の軌跡-Vol.08】40代・NPOプロマネ、子育て/仕事のリアル-ようやく見つけた自分の居場所 #SDN20

育て上げネットの歩みを紹介する企画「20年の軌跡」。
第8回は、育て上げネットのオンライン支援マネージャーである平井奈穂。

育て上げネットをご存知の方はもちろん、若者支援やNPOについて理解を深めてみたい方、子育て中の方、NPOへのセカンドキャリアを考えている方、将来を模索する若者もぜひご覧ください!

これまでの記事はこちら


平井 奈穂(ひらい なほ)
大学卒業後、医療/福祉/教育業界の人事部門にて、全国約900か所の訪問介護ステーションの評価制度の立ち上げに携わる。その後、人材紹介会社リクルートエージェントにて、キャリアアドバイザーの経験を積む。
約7年間のブランク期間(地方転勤、子育て期間)を経て、2017年育て上げネットに入職。現在はオンライン支援部門のマネージャー。

育て上げにくるまで

内気な大学生に訪れた転機

――もともと若者支援に興味があったんですか?

叔父は精神科医、叔母はその病院で働くソーシャルワーカーでした。
身近に福祉や心理学がある環境で、大学も心理学を専攻しました。

支援や福祉に関心が向いたのは大学2年のとき、フィリピンにボランティア留学にいったことです。そこが自分の起点であり、ベースだなと思います。

――フィリピン留学に参加した理由は?

高校までは内向的でした。

すごく人見知りで、人の目線が気になってリーダーの影に隠れるタイプ。
活発に見えるけど中身は繊細で、生きにくい人生でした。

大学に入ってからもそれは変わらなくて「このままこうやって生きていくのしんどいな」と思っていたときに、留学プロジェクトを見つけました。

バングラディシュ出身の先生が、日本フィリピンボランティア協会というNGOの関係者で参加者を募集していたんです。見つけたときにピーンときて!

――大きなチャレンジですよね

大嫌いな自分を変えたかったんでしょうね。

実は対象学部は自分とは違うところで本当はダメなんですよ。
無理してお願いして連れて行ってもらいました。

それまで “ 自分からチャレンジする ” をしてこない人生でした。

何をするにも親に聞き、誰かがやるからそこに流れていくタイプで。
でも大学生って急に自発性が求められますよね。自分で立たないと流される一方なのが嫌で仕方なくて。

フィリピンで、自分の世界がいかに小さかったか思い知りました。
くよくよしていたことが馬鹿らしく思えました。

――どんなことをしたんですか?

フィリピンでは孤児院の訪問や植林を体験しました。

行く前は「貧しい国で自分たちができることをしてあげる」という福祉のための一歩みたいな感覚だったけど、行ってみたら真逆。

そこで暮らす人たちとの関わりは、むしろ、私が学ばせてもらう、やらせていただくの精神性に触れた機会でした。

このときの経験で将来は心のケアや福祉の方面へ行きたくなりました。家庭環境も後押しして、そういう分野に絞って就活しました。

フィリピンへのボランティア留学

新卒1社目、苦労も楽しい宝物

――就活は順調でしたか?

2003年入社で、ありがたいことに第1希望の会社に入れました。

フィリピンの経験で気持ちは固まっていたので、堂々と志望動機も話せて、想いとズレずにやれたのが幸いして内定はいただけました。

これだけだと成功者って感じに聞こえそうで…
氷河期世代ですから、手当たり次第にESを書きまくって、落ちるのは当たり前、とにかくガンガンやる…って感じでそれはもう大変でしたよ。

――入社したのはどんな会社?

ニチイ学館へ総合職で入社しました。医療、介護、保育サービスなどを全国で提供する会社で、当時900箇所くらいホームヘルパーステーションがあり、医療事務の派遣や通信教育も行なっていました。

社長室の組織管理課に配属になり、3年半、組織の業績評価に従事しました。経営の直轄部署で、簡単に言えば役員へのデータ収集が仕事です。

――いきなり社長室ですか

入社1年目は言われたことを遂行するだけでした。

すべての現場の実績とKPIを集め、グラフなどデータ化したのち分析して役員に提出します。当時はまだFAXが主流。システムとかもなくて地道な作業でした。社長室ってキラキラしているように見えて、やってることは泥臭いんですよ。

――直接の支援ではないですよね。思い描いていたものと違った?

そうですね。でもね、楽しかったんですよ。マクロの観点で福祉業界を俯瞰できて、間接的に現場も知れた。良い経験になりました。

現場と経営者、両方の話を聞いて「間に立つ」ことも性に合っていたと思います。同じことを言っているようで双方使う言葉が全然違います。どう噛み砕けば伝わるだろうと常に考えていました。

現場とのやり取りは、上から目線にならないよう細心の注意を払いました。
新卒が大先輩のマネージャーに「データが出てなくて・・」と催促するんですから‥‥

良かったのは同期40人が仲良しだったこと。20年経った今でも旅行にいくメンバーもいて。泊まり込みの研修をさせてもらったりしたので、同じ釜の飯を食った仲というか(笑)

次の日の会議のデータの作り込みを朝までやったり、ハードな日々でしたが「苦しいよねー」と言い合えたから、どうにか楽しめました。同期と働いた時間は、宝物です。

今でも旅行に行く同期たち

転職で転落。人生の底辺1回目

――そんなに良い会社なのに転職ですか?

流されてばかりで自己評価の低かった私も、3年も過ぎると多少自信がついてきました。初めて自分の思う通りに生きることができた~って。

そんなときに、転職ブームがきたんです。
同期はことごく輝かしいキャリアへ羽ばたいていきました。

ニチイ学館は伝統ある堅実な会社と思っています。それは良い面であるけど、上下関係もしっかりの年功序列。ベンチャー気質の成果主義とかに憧れる子が出てきて、私は辞めていく同期を見届ける側でした。

――それで平井さんも転職を?

調子に乗ってしまったんです。
「私も羽ばたく!」となってしまいました(笑)

ブームに乗っかって安易に転職サイトに登録したんです。

友人・同期に結婚する子が増えてきて「結婚って素敵!」となり、ウエディング会社にエントリー、1社目で内定が出ました。「給料も上がるし条件もいいから行っちゃえ!」と、何も考えず勢いで転職してしまいました。

これも式場とお客様の「間に立つ」仕事。ダイレクトにエンドユーザーと関われる仕事ができそうな所がモチベーションになっていました。

でも、ここは2週間で辞めてしまいました。
私のキャリアには2回、ドーンと落ちるポイントがあり、ここが最初の下落です。

――2週間‥‥なにかありましたね

まずウエディングプランナーだと思って入ったけど違いました。
面接で「プランニングもありますよ〜」という言葉を聞き、確認もせずに入社したんです。

就職氷河期で新卒のときにあんなに大変な思いをしたのに、閃光のようにパッと入れたから「こんなチャンスない!」と舞い上がってしまったんです。

結局、配属されたのはドレス部門。
でも、私は洋服を買うときに人にあれこれ言われるのが苦手なタチなんです(笑)

「自分がいなくてもいいのに‥‥」と思いながらドレス選びをしつつ、アイロンがけやクリーニング。いったい何のために転職したんだろう‥‥と、確認もせずに入社した自分を責めました。

――まったく合わない仕事についてしまったと‥‥

なにより文化が違いすぎました。

20時に仕事が終わり「やっと帰れるー」と思いきや、「来月、六本木で社長の誕生日パーティーがある。踊りの出し物をするから、今日はこのあとみんなで練習。明日はそのまま朝まで練習するから」という通達が。

もちろん残業代は出ません。踊りはパラパラ。

もしかしたら見た目が派手だから採用されたのかも。パラパラもついていけなくてシュンとしてると、周りは「なんであんたやんないの?」と。

‥‥‥‥世界が違う、と思いました。

――辞めた理由がわかりました

パラパラは1日ならまだしも何日も続きました。

ニチイでは明け方まで頑張るのなんて全然苦じゃありませんでした。
「この資料があるから現場のモチベーションが上がるんだ!」と熱意を持って取り組めていました。

社長の誕生パーティーのための朝までパラパラ練習。
しかもそれを当たり前にやってる文化に入り込んでしまって、なんかすごい世界に送り込まれちゃった感覚になりました。

――想像とあまりに違いすぎますね

それで、会社に行くのがすごいストレスになりました。
今でも前職のエリアに行くと呼吸が苦しくなります(苦笑)。

電車のホームにふぁーっと吸い込まれそうになり、「あ、このままいったらやばい」と思いました。

この頃の記憶はほとんど飛んでいて、とにかく逃げるように辞めました。
そんな会社でも迷惑をかけてしまったと、自分を責め続けました。

“ 社会人失格 ” のレッテルを自ら貼り付け、2〜3ヶ月は落ち込んで無気力にぼーっと過ごしました。

――平井さんからは想像できないエピソードです

あえてポジティブに捉えたら、若者のつらい気持ちを理解するヒントになっているかもしれません。

若者の悩みや困りごとの全部は絶対にわかりません。

だけど、たとえば半年間ひきこもり状態を経験した方がいたら、そのときの孤独や無気力さ、自責の念はよくわかる気がします。
「も〜〜う本当につらい半年だよね」と。

――立ち直ったきっかけは?

まだ周りもバリバリ働いている年齢だし、このままじゃいけないと思って少しずつ友達とも会ったりして、元気を取り戻せました。

そして「今度は絶対に自分だけで転職活動しないぞ!」と心に決めて(笑)
リクルートエージェントに登録しました。

極限まで自己肯定感は落ちてたので、門前払いされるだろうと思っていたら「お会いしませんか?」と連絡がきて、アドバイザーと話すことになりました。

――自分だけでしない、がポイントですね

担当アドバイザーには素直に全部話しました。

すると思い掛けず温かく励ましてくれたんです。
「全然、大丈夫ですよ。平井さん、大丈夫ですよ」と。
その言葉にどんなに救われたことか。

新卒のときも転職もひとりの就活でした。身内や友達は応援してくれるけど、第三者で伴走してくれる人がいるとは!なんて素晴らしい仕事だろうと感銘を受けて、これからゆっくり自分のことを考えようと心が落ち着きました。

それで、いろいろと求人を見ていたら、そのなかにリクルートエージェントも入っていて。「うちで働くことを考えないか」と言ってもらいました。

――重要な出会いがあったのですね

金融系など手広く受けましたが、リクルートの面接官は私の転職経験を肯定的に捉えてくれました。

それで信じて大丈夫そうだなと思えたので最終的にリクルートに決めました。結局その面接官が上司となり、一緒に働くことになりました。

若者支援のスタートライン

――リクルートではどんな仕事を?

配属先は第二新卒キャリア支援マーケットといって、20代半ばでキャリアチェンジをする人の専門部門。私の前職の苦い経験を活かせるだろうと決まったようです。

私の若者支援の原点はここです。

夜遅くまで仕事して、その成績は張り出されてデータ分析されます。
ダメ出しされるわけではなく、良い人の真似しろとか良い点を吸収しろとか、人間味溢れる風土が合っていました。

ニチイ学館とリクルートの良いところが私の社会人としてのベースになっていて、どっちも今でも大好きな会社です。

――それなのにまた転職を…?

リクルートに入ってから結婚もして、3年ちょっと続けました。
でもやりすぎだったんです。

20代後半ってバリバリやれちゃうし、そうする体力もある。
旦那より遅く帰宅し、何も家事をしない結婚生活が続き、専業主婦の母も心配していました。

しかもこのときに、黄体機能不全がわかって、注射をガツガツ打たないとホルモン値が上がらないと医師から言われました。リクルートの最後の方は身体がボロボロで、半年以上通院しながら勤務しました。

そんなことをしていたら医師から「このままじゃ妊娠できないよ」と宣告をされてしまったんです。子どもは欲しいと思ってたのに。

今の図太い私なら上司にそういう相談すると思います。
「事務的なポジション何かないですか」とか、
「給料半分になってもいいから同じ仕事ができませんか」とか。

でも、弱い面を出すのが本当に下手で、目の前のことに全力で。
当時はそんなことできなかったんです。

――年齢重ねて図太くなったと

そう!白黒思考も強かったし。
それは経験が浅いからで、きっと上司は相談に乗ってくれたと思う。

でもそのときは「頼ったら即戦力から外れる」などと悪いことばかり考えて、相談する発想がまったくありませんでした。

だから、いま、若いスタッフが頑張りすぎていると、周りが言ってあげないとなと思うし気を付けています。

――楽しいのに働きすぎ…悩ましいですね

悩ましい日々を過ごしていたとき、早期退職ブームが到来。
またまたその流れに乗って退職しました。

お給料もやり甲斐も十分。でも、結婚して、夢見る新婚生活のはずが毎食コンビニで何やってんだ。何が本当に大事なんだろう?と考えてしまって。
そこに婦人科系の不調が重なって。

やっぱり子どもが欲しかったので仕事をあきらめました。

――家庭か仕事か選択を迫られた時代ですね

そうですね…

なんだかんだ、退職したら半年で妊娠しました。
喜んでいたら、出産後に夫の新潟転勤が決まったんです。

リクルート退職時

子育てにまい進・新潟時代

――退職、出産、転勤を1年で経験したんですね

ふたりとも東京生まれでわからないことだらけで転勤して。
でも、やるしかなかったんです。乳飲み児抱えているし当時の私に選択肢はありませんでした‥‥

遊び場を探したりネットワークを作ったり、子どもを育てることに必死でした。内気でいたらどうしようもないので、子どものためにがんばらなきゃというアクティブな新潟時代。

知らない土地で自分が孤独なのは良いけど、子どもに遊び相手がいないのはかわいそう。

変わらねば!と母ならではの強さがむきむき出てきました(笑)

――交友は広がりました?

新潟でも転勤族が集まるエリアだったのが幸いしました。
同じようなファミリーがいて、交流はありましたね。

地域に必ずいる社交的なママについていったらそこに輪があって(笑)

そこで転勤族で親友と呼べる人ができたんです。
この年で親友ってできるんだ~って思いますね。

新潟時代

――母子ともに孤独にならなくてよかったです!

夫の転勤でやむなく仕事を辞めてきたママが周りにたくさんいたので、逆に「あ、いいんだこれで」と思えました。

近しい境遇で話が合う友人も多かったから、つらさは無かったですね。

でも、たまに東京に帰省して同期に会ったらみんなバリキャリ。

「育児しながら働く」がスタンダードだったから、取り残されてる?って不安になるんです。新潟は専業主婦ばかりで「保育園」や「夫と協力して家事をする」なんてないからギャップがすごかった。

ふたりめを出産したころに、東京への転勤が決まりました。
新潟には5年半いたことになります。

東京に戻ってからが、2回目の底辺です。
ここからの1年半もとにかく苦しい時期でした。

生産性のない自分への罪悪感

――専業主婦を続けてたんですか?

はい、私は親にも旦那にも「働かなくてもいいよ」と言われてました。

でも1,000円のランチをすると「ああ、旦那さんのお金で食べさせてもらっているのにどんどん減って行く‥‥」と毎回毎回、罪悪感を感じてしまって。

――え???

私は家に何の収益も生んでない、ただお金をすり減らしてしまってる人、、、みたいな感覚が実は新潟時代から常にありました。

――専業主婦になりたい願望も根強いですが…

わたしはそうではなかったんですね。
うっすらと罪悪感があるんですよ。良い言葉がないけど、生産性がないというか‥‥

その頃、メルカリで子ども服を売り始めたんです。
500円、1,000円と売り上げが入る喜びがいまもずーーっと残っていて。

そのお金でちょっと良いランチをしたり、コンビニで少し良いおやつを買ったときの「はあ〜、自分で生産して食べられた」っていう喜びたるや。

――なるほど社会参加みたいな…

お給料をもらえた喜びに近い感じです。
私は「家事も子育ても十分仕事じゃん」って思えず、満たされない気持ちが続いていたんですよね。

たった1,000円でもいいから稼ぐ喜びが欲しかった。

雇われなくても満たされる小さいステップがあることに気付きました。
売れた喜びと「ありがとうございました」ってちょっとしたやりとりが、孤独を少し埋めてくれました。

――「働きたいのに働けない」のが苦しいと

新潟には「やむなく仕事を辞めた人」がいっぱいいたけど、東京の友人は保育園が当たり前。預け先を探したけど、働いてないから保育園は選択肢に入らない。

必然的に幼稚園しか選べなかったんです。
そうすると「私は働きたいのにまた働けないのか‥‥」って落ち込みました。

しかも、当時の東京の幼稚園はほぼ満員。転校生には選択肢などなく妥協の末に入園先を決めました。その幼稚園は専業主婦の方が多くて「働きたい、稼ぎたい」が先行する当時の私は、その雰囲気になじめませんでした。

――ウェディング業界のときと近い印象が…

働いてない、所属がない、社会から必要とされてないって感覚がめちゃめちゃ孤独なんだなと思い知りましたね。

誤解がないようにしたいですが、子どもを育てるのは一大事業、専業主婦に生産性がないという意味ではありません。とても奥深い仕事です。

ただ「働きたい」に共感してくれる人が周囲に誰もいないことが孤独だったんです。

育て上げネットとの出会い

「週3、4-5時間」ダメもとで連絡した

――それにしても自責感が強いですね

結局、選んでるのはすべて自分って思ってました。

東京での専業主婦時代は底辺で、めちゃくちゃ肌荒れもして苦しかったです。周りは幸せそうなのに、なんで幸せって思えないのだろうっていう自己嫌悪。

公園に子どもを連れていっても、楽しげなママを横目にぽつんといる自分。新潟ではその輪に入っていったけど、東京ではそこに馴染む気力もありませんでした。

あるとき「だめだこれはおかしくなる!働くんだ!」と決意しました。

幼稚園に子どもを預けたから時間が空いて、このタイミングで家を買いました。地に足つけたぞ、ローン抱えるぞ!と意気込んで(笑)

7年ぶりの就活!と息巻いたのですが、何社か受けて全部落ちました。

――苦しい結果です、ブランクもありますし

「やりたいこと」をいったん忘れて、とにかく条件の合うところを探して受けたんですけど幼稚園に預けている間だけで働くとなると「週3、4-5時間」みたいになって、まあ落ちるんです。

半ばあきらめていたときに育て上げネットの求人を見つけました。

はじめて育て上げネットを知って、ホームページを見ていくうちにこれしかない!と思って。志望動機はスラスラ書けました。

2回の底辺時代を振り返ると、そのとき誰かとつながれていたら‥‥という想いはずっと心に残ってました。でも、もっと大変な人がいるんだ、そうだよねと納得と理解をして。

理事長の「若者支援は社会投資」の言葉が胸にビシバシ刺さりました。

求人情報に載っていた条件は週4-5の事務職だったんです。
私の希望とは合わない求人のうえ、しかも「子どもがいるので夏休みは休むかもしれません」とまで書いてダメもとでメールを出しました(苦笑)

そうしたら深谷さん(執行役員)が「条件はすり合わせできるのでお会いしませんか」というメールをくださって。文面だけでも他とは違う温かさを感じ、すがるように会いに行きました。

――深谷さんの言葉とホームページがリンクした感じですね

もうその面接が本当にあたたかくて〜〜〜〜〜。
深谷さんが話を聞いてくれて、ふあーーーって心が軽くなる感じがしました。

7年もブランクがあるから突っ込まれるかなと思ったけど、
「ブランクじゃない、やってるじゃないですか」とまさかの全肯定。

ネガティブな感覚を取り除いて、温かく包んでもらった気分でした。他の面接では必死に取り繕ったけど、自分のことを正直に言えました。若者と同じ、ケアしてもらう感覚でした。

子育てが理由の "できない" は堂々と言って

――ここから育て上げネットに参加ですね

正直、こんな条件で受かると思ってませんでしたが、私が提示した「週3、4-5時間」を受け入れてくれて育て上げネットで働くことになりました。

最初は企業との協働で行っている事業の事務局として働きました。
各地で実施された講座のデータを支援団体から収集・整理する仕事です。

――ニチイでやってた仕事に近いですね

そう!やれそうだと楽観視していました。

――実際にどうでしたか?

実は、引継ぎがうまくいかなくて結構ドタバタしてしまって…

当時は属人的な仕事が多くて、前任の方しか仕事を把握できてませんでした。その引継ぎで苦労してしまったんです。

早々に限界を感じて上司に「辞めたい」と伝えました。
前任者はフルタイムだったから、パートの自分が辞めればいいやって。ここでも自分を卑下する気持ちが出てしまって。

そのときに当時の上司が助けてくれました。

「そうなんですね!平井さんができるようにするから!」と前任の方との間に逐一入ってくれてすっきり解決!

上司がかけてくれた言葉は、当時の私にはあまりに衝撃的でした。

「平井さん、辞めないで。子育てのことで自分ができる範囲が限られちゃうのは堂々とした理由だから。子育てを理由にしたできる/できないは、堂々と言える理由だから言ってね。自分を卑下する必要はないし、SOSも出していいからね」と。

心に沁みました。

リクルートではSOSを出せずため込んだ自分。やっとの思いで復職したのに、すぐに辞めようとした自分。今度は “ 仕事が続かない人 ” のレッテルを貼ろうとしていました。

でも初めて「言っていいことなんだよ」と言われて、胸のすく思いがしました。そうだったんだ、助けてって言ってよかったんだなと。

他のスタッフも混乱が多いなかで助けてくれました。

逃げグセがある自分が8年も続けてるのはこの最初の半年があったから。すごく感謝しています。

――しばらくはパートタイムで勤務した?

週3で働けるようになって、子どもが小学生になったタイミングでフルタイムになりました。週3できるなら週5もできるなと自信がついていて。

若者支援と同じです。スモールステップを刻んでいきました。

マネージャーへのステップアップ

――仕事は同じですか?

いえ、このとき育て上げネットは「働き方拡張型支援」というのを推し始めた時期でした。担当者やらない?と打診され、担当することになりました。

働き方拡張型支援‥‥メルカリやココナラなど一般にスモールビジネスと呼ばれる多様な働き方を仕事体験やプログラムテーマに据えて支援に活用するプログラム。自身の興味関心の高い領域から支援を始められるので利用ハードルを下げることにも貢献する。

新型コロナで社会が混乱していた2020年頃は、Youtubeをかなり頑張りました。企画・編集を必死で勉強して再生回数1万回を超える動画をいくつも作れたのは自分にとっても働き方が拡張したビック体験でした。

コロナ禍で支援がストップしてしまっても何とか若者とつながっていたいと必死でしたし、考えて実行しているときはとにかく楽しかった!

支援者向けに開いたメルカリワークショップ

――今はオンライン支援の担当ですよね?

「働き方拡張型支援」で現場をまわっていたのですが、新しく始まったオンライン支援のプログラムにも一時的に籍を置くようになりました。その流れから正式にオンライン支援に異動になり、2022年にマネージャーになりました。

――いきなりマネージャーですか

立ち上げのときから実質リーダーみたいな感じで、前々から「マネージャーやってね〜」みたいな耳打ちはあったんです。立場が急に変わったわけでなく、メンバーも5人だったので引き受けました。

――働き方に変化は?

自分がマネージャーになり、裁量権が増えたことで動きやすくなりました。

今やメンバー16人の大所帯。

属人化が怖いので、みんながわかるようにすべてのプロジェクトをチーム制に。誰だったら一番力を発揮できるかな?と考えて組み立てていく感じが今はとても楽しいです。

1年目は頭がカチコチでマネジメントの本を読んで模索し、楽しむ余裕はゼロでした。
2年目でようやくパッと視界が開けて、

「こういう配置にするとみんなが動きやすいな」、
「こういうアナウンスをするとみんなのQOL上がるな」とか、

以前まで利用者に思っていたことを、スタッフに向けて考えるようになりました。

働きやすい環境を整えて、スタッフのモチベーションを上げる。それが結果的に良い支援につながります。例えば、ひとりのスタッフが30人支援できるようになったら、10人で300人とつながれるじゃん!みたいな。

それぞれの個性を活かして、欠けてたら欠けたまま、どうやったら補えるんだろう?と考えるのが新たな楽しさです。3年目でちょっと見えてきた、というのがあります。とはいえまだまだマネージャー3年目なのでヨチヨチ歩き。未熟な自分が嫌になる時もあります。頼りになるメンバーにいつも助けてもらいながら何とかやってます。

――いまはマネジメント一筋ですか?

自分の進路は未だに悩みます。

どこかで支援の現場から離れたくない気持ちがあって。マネジメントの難しさ面白さを感じつつも、現場の良さも大切にしたくて‥‥

支援をしてると何ともいえないアドレナリンが出るんです。現場から離れたくない気持ちは数年後もある気がします。

とは言え、現場だけでは見える世界が限られるし、社会という立場から、若者支援ってもっとこうすれば良い、じゃあどういうアプローチすればいいんだろうと悩む余裕ができたのは現場から離れたからこそだなと思います。

でも、現場の生々しくて、人間くさい感じから離れていってしまう怖さもちょっとあってバランスとるのは難しい。完全には離れたくないですね。

オンライン支援のメンバー・加工アプリも駆使して和気あいあい

――子育てとの両立はできてますか?

テレワークができるから成立している感じです。そうでなければ無理でした。

経営陣も子育て真っ只中という感じで、すごく理解が深かったので、柔軟に対応できました。両立が当たり前の文化が心地いいです。

いわゆる満員電車で朝晩通勤して‥‥みたいな昔気質な上司だったら無理だったと思います。ここは理事長でさえ16時になると子どものお迎えのために帰りますから(笑)

「できない分はどこかで穴埋めすれば良い」と融通が利く働き方を推奨してくれる法人文化があって、本当に助かっています。

家事はうまく手を抜いています。

完璧は無理なので、優先順位付けながら最低限のことをやるようにしてます。さぼるスキルもだいぶ身についてきたかもしれないです。子どもたちもレトルトカレー出しても喜んだりしますしね‥‥

――適度な距離感ですね

そうですね。子どもが中学生と小学校高学年。手は離れたけど目は離せないというか。繊細な時期なので家庭にも余裕を持ちたいです。
子どもの進路が軌道に乗るまでは、バランスを保ちたいというのが一番かな。

若者と社会の「間に立つ」

――オンライン支援について教えてください

パソコンやスマホからビデオ通話で参加する支援プログラムです。
支援メニューは主に4つがあります。年齢層やテーマ、相談が中心だったりや講座形式だったり、趣向も違います。

家から出られない、出たくないという方でも利用できるし、他の支援機関を利用している若者を1,2か月預かって、元気にしてお戻しするなんてこともあります。

全国どこからでも参加できるのが強みです。ただ、オンラインのプログラムでは地域の産業の情報や地方ならではの事情が掴み切れないこともあります。どうしても限界はあるので、日本中の支援機関と連携して一緒にやっているのもポイントです。

――どんな若者が対象?

対面支援のハードルを高く感じている方が多いです。いわゆるひきこもり状態というとイメージしやすいでしょうか。それだけでなくて、約束通りに朝起きて電車に乗るのが難しい方とか、対面の会話が苦手だけどチャットならOKとか、いろんな理由で利用している方がいますよ。

――低いハードルがウリですね

「人とつながれる!」という感覚を知ってほしいなと思います。

すごく小さなステップに思うかもしれないけど、私もメルカリの売買で「つながった!」って思えたからその体験を掴んでもらえたらいいですね。

それぞれに別のゴールがあるから、外に出なくても良いなら出ない選択肢もありです。オンライン上でできることを増やしてそのスキルを活かして就職した方もいます。

――原資はどこから?

主に企業や自治体のサポートを受けて運営しています。私たちの活動に共感してくださって、事情をよくわかってくださっています。

ボランティアや社会貢献として社員の方が講師になる講話会なども実施しています。働いている人のリアルな情報は私たちでは伝えられない貴重なものですね。

――平井さんの考えるこれからの若者支援とは?

こうあるべきを持たないこと、かな。

型を作っちゃだめ。自分の若い頃と今の若者の価値観も環境もお金の使い方も全部違うので、自分の固定観念で決めつけてはいけないと思います。

それが個々人で違うので、知ろうとする気持ちや柔軟さを持つことが大切。

「若者」でひとくくりにできません。みんな違うから、こうあるべきという思考を持たないことが大事だと思います。

――今後やりたいことはありますか?

マネージャーになって目線が変わった分、スタッフを育てることが軸になりました。スタッフの前向きな変化にとても楽しさを覚えます。

こんなにできるようになったとか、任せたらこんなに活躍するんだとか、どんどん変化していく人を見られるのが楽しい。

もしかしたらそういう目線を強められる仕事が増えていくといいのかなと思ってます。

あと、足りない支援を作っていきたいと思っています。

育て上げネットの良さは、例えば、こんな悩みを持ってる若者がいたぞ、どうしたら利用してもらえるかな、じゃあやってみようか!と柔軟性高く行動に移していけることです。

私はオンラインの次のステップとしてつながれるリアルの場を作りたい。

「就労支援のための場所」ではなくて、若者が誰かとつながれる場所を作り、その場所に行くことでケアされること。

前進したい若者には業務委託で仕事を渡してみたり、まだそこまで元気がないなって若者は来ること自体が小さな成功体験です。そういった、オンライン支援の次のステップになりえるリアルの場を作りたいですね。


今回はここまで!

読んでいただきありがとうございました。
次回は広報事業について振り返ります。7月中旬公開予定です!

育て上げネットのオンライン支援についてはこちら

◆働き方を多様に拡張する「YouthDrive/働き方拡張」プロジェクト
(本動画はJ.P.モルガンの社会貢献活動の助成を受けた「Youth Drive for Degital Flexible Jobs」プロジェクトの一環で行っています。)



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