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真っ白な皿の中心、ドーム状に綺麗に盛られた狐色のご飯。外食する際に陽菜は、それを炒飯と認識していた。
お世辞にも丁寧とは言えない態度で陽菜の目の前に置かれた皿。それは、一見するとピラフの様だった。
銀色のスプーンを使い、米の隙間から小海老やとうもろこしの粒を探したがそれらしき物は見当たらない。
バターやハムの香りは全くなく、ネギ油や牛脂の主張の強さが強引に鼻に入った。
品書きに書かれた「チャーハン」の文字をもう一度確認すると、陽菜はその料理に対する印象を一つ改めた。
陽菜は物事に対して自分自身の中に勝手なイメージを植えつける事が、いつの頃からか習慣化している。
ゴリラが手に持つのはバナナであるべき。漫画の様な子供じみたイメージが想像以上に頑固に陽菜の中にはあった。
それ故に自分が思い描いた物と噛み合わない物が存在していた時に、咄嗟に懐疑的な目を向ける癖があるのだ。
「陽菜ちゃん、なんか苦手なもんでも入ってるの」
鉱山の採掘作業の様に炒飯をスプーンでいじくりまわす陽菜に、向かいに座るまゆが言った。
「あ、いや、なんでもないです。」
まゆは額に汗を滲ませながら見るからに舌が燃えそうな麻婆豆腐に立ち向かっている。
店内に備え付けの空調が壊れているらしく、年季の入った扇風機が吹き抜けの座敷に向け、首を回している。
その首が陽菜たちの方へ向くたびに、壁から垂らされた日よけの簾がカサカサと揺れるのだった。
「んー、からい。けど、これこれ。やっぱこの味だよ」
よほど辛いのか鼻をすすりながらまゆは頷き、言葉を噛み締めるように言った。
陽菜はパラパラの炒飯をスプーンで掬うと、一度それをジっと見つめてから口に運んだ。
挽き肉は高温で長時間焼かれた為か、消しゴムのカスの様でいて、かろうじて肉だと認識出来るほどだった。
雀踊りのフィナーレを見送った陽菜たちは、まゆが定期的に足を運ぶ四川料理の老舗店へ連れてこられていた。
デビはというと、コンビニのアルバイトの時間があるため、名残惜しそうにまゆを見つめながら二人と別れていた。
駅裏にひっそりと佇む店舗は壁面に大きな店名を掲げてはいたが、劣化が激しく所々が火で炙られた様に虫食い状態だった。
本当にこのお店は美味しいのだろうか。陽菜は持ち前の疑り深い性分を全開にしながら、お店のドアをまゆと共にくぐった。
古民家を改装したような店内に備え付けられたテレビからは、青葉祭りの終了を告げる内容を地元のキャスターが伝えている。
陽菜は時々テレビで見かけるこのキャスターを密かにお地蔵さんと呼んでいた。ゴルフ場の芝生の様な髪と、点と線で描いた様な顔が理由だ。
厨房ではヘアワックスを付けているのか黒光りする頭髪の男性が、陽菜達の後から入ってきた客の料理を豪快に調理している。
夫婦で経営されている店なのだろう、狭い店内で一人だけで注文を取る40代くらいの女性を見つめながら陽菜は思った。
古風な定食屋に観られる客との猥談を楽しむような雰囲気は無く、陽菜を始め客達は黙々と目の前の料理を口に運んでいた。
炒飯とセットの中華スープに口をつけた陽菜は目線を目の前に戻す。まゆはマグマの様な麻婆豆腐を綺麗に消し去っていた。
「あのキャスター、禿げたビーバーみたいな顔してんね。」
真剣な顔で政治家の不正疑惑を報じる男性を見つめながら、まゆはフッと鼻で笑った。
どうみたってお地蔵さんだと想っていた陽菜のイメージは、信じられない単語の組み合わせによって打ち砕かれた。
そもそもビーバーは、禿げる事があるのだろうか。画面の向こうの男性は至極真面目な顔をこちらに向け原稿を読んでいる。
「めんどくさいことってあんじゃん。でもそれってさ、実際は自分がめんどくさくしてるだけなんだよ」
テレビに映る禿げたビーバーから目を離すことなく、まゆは唐突に話し出した。
「本当はもっと色んな事がシンプル。理由とか、言い訳とか、余計なモン足しちゃうから面倒になるって、うちは思うな。」
陽菜は半分まで減った炒飯を掬うと口に運び、よくわからないなと思いつつも話し続けるまゆへ耳を傾けた。
後から入ってきていた客達が口々にご馳走さんと会計を済ませ、連なるように先に店を出て行く。
まゆは片手に持ったプラスチック製のグラスの水を時折飲みながら話を続けた。
「デビはね、そういう面倒さが無いの。あの子はね、すっごいシンプル。うちと話す時は必ず、ちゃんと目を見てくれるし。」
テレビへ顔を向けたままではいるが、まゆの目は別の何か尊いものを見つめているようだった。樹脂の様に光沢のないまゆの黒いネイルが空のグラスをカチカチと鳴らした。
「皆さ、きっと何か隠してんだよね。後ろめたいんだよ。だからじっと見つめられると目を逸らす。誤魔化したくて。」
まゆはそう言うと、残りの炒飯を口へ運ぼうとしていた陽菜へ向き直った。扇風機がまゆの際立った襟足を揺らす。
「高校のときにさ、あ、うちバスケ部だったんだけど」
【水・セルフサービス】と壁に貼られた紙をちらと見てから、まゆはグラスを片手に席を立った。
「そこの顧問がとんでもないセクハラジジイでさ、フォームが変だとか言いながら、うちらの体とかめっちゃ触んの。マジむかついたからボールの雨降らしてやったんだ」
うまく反応しない給水機のボタンを何度か指先で押しながらまゆは笑った。客の居ない店内にまゆの声が響く。
「え、ボールの雨って、まゆさん、その先生怪我しなかったんですか」
グラスの水をテーブルに置き胡坐をかいたまゆに、陽菜は心配そうな声をあげた。
「親とか呼び出されてめっちゃ怒られた。んでしばらく学校行けなくなった。ジジイが悪いのに、おかしいよね」
まゆは当時の様子を思い出してきたのだろうか、そう言うと眉間に力を込めた。空を睨む表情は文字通り狛犬の様だった
確かにセクハラは良くないけど、少しやり過ぎなんじゃないかな。陽菜は行き過ぎた制裁を受けた講師を想った。
「高校は、卒業できたんですか」
「まあね。そのジジイもどっかで悪いと思ってたんじゃない。なんかいつの間にか居なくなってたし。」
遠いものを見るようにまゆは目を細めるとグラスの水を飲み干した。
「まゆさんて、、すごいですね。。」
実際の所すごいというより、まゆの話に少し動揺した陽菜は遠慮するような口調で俯いたままつぶやいた。
「そうかなあ、すごいかは知らんけど、悩むことあったら考えすぎないほういいよ。ややこしくしてるのは大抵自分自身。」
言葉尻を言うのと同時にまゆは、二人の食事の明細が挟まれた赤茶けたバインダーを手に握った。陽菜の返事は毎度強引に後回しにされる。
まゆの言葉は部分的に理解はできたが、いきなり講師の頭に無数のボールを落すような事はするべきじゃないと陽菜は思っていた。
会計を済ませた二人が店を出ると、道路は闇が支配し、お店がある駅裏の通りは街灯が道標の様にポツポツと道を照らしていた。
店先でまどろむような事をせず、まゆは次に目指す場所が既に分かっているかのようにすぐに迷いなく歩み始めた。
遅れた陽菜は闇の中で白く光るまゆの後姿を観て、日中気になっていた事を思い出し歩み寄ると香ばしさの残る口を開いた。
「そういえば、まゆさんて腰に、花が描かれて、、えっと。なんか、ありますよね」
使いこなせない日本語を話すデビの様に、部分的に切り貼りしたような妙な日本語を陽菜はまゆに言った。
「あぁ、これは蓮の花。」
スポットライトの様にまゆの白い腰元を項垂れた街灯が瞬間的に照らし出した。
一見するに花とは認知できるが絡まる蔦や無数の襞の様な模様が、それらを「花」の様な「何か」と躊躇するデザインを成していた。
陽菜はまゆの部屋で見た極彩色に描かれたガネーシャを囲う無数の花を、ふと脳裏に思い出す。
「ネパールだと強い意志とか、信念とか、なんかブレない意味、的な。うちそういうの大事にしてたいからさ。」
そういうとまゆは鉄パイプを捻じ切った様な指輪を付けた細い指先で、繊細な蓮の花を愛でるようにそっと撫でた。
まゆはお酒を飲んでる訳でもないのにどこか千鳥足で、鋭利なつま先をクロスさせる特徴的な歩き方をしていた。
日中停めた車は、どこにあるのだろう。祭りの会場からはさほど離れてはいないがもうすっかり日が落ちている。
この時間には少し肌寒すぎる格好のまゆが、油断したら妙な連中に絡まれる様な気がして陽菜は口を開いた。
「あの、まゆさんの車、どこに停めてあるんですか?」
思いつきの露骨な表情を浮かべて、陽菜は横を歩くまゆに体を寄せた。
「んー、、なんかさ、アイス食べたい。そこ、寄ってもいい?」
陽菜たちの進行方向に青色のLED看板を煌々とさせているコンビニが見えた。まゆは陽菜の心配を軽々と飛び越える。
言葉を発したのも早々にまゆは急に駆け出し、場違いな程に明る過ぎる店内へ吸い込まれるように入っていった。
まゆにとっては陽菜の心配などは考えるに値しないことなのだろう。彼女の中では今は何よりもアイスが勝るのだった。
コンビニの入り口のゴミ箱には祭りの屋台で食べたであろうプラスチック容器が大量に押し込まれていた。マヨネーズやケチャップが落書きの様に飛び散っている。
軒下には最近あまり見なくなった古びた虫除けのライトに羽虫が群がり、パチパチと線香花火の様な音を鳴らしていた。
店内に入ると客は陽菜とまゆの二人だけのようだった。心ここにあらず。というような魂の抜けた顔の男性店員が陽菜へ空虚な挨拶をした。
まるで証言台に立つかの様にアイスケースに広く両手をつき、まゆは獲物を狙うように冷えた箱の中の商品を見渡していた。
「アイスはやっぱしバーにかぎるっしょ。しかも今日はツイてる。まだあった。」
まゆはケース内でも端の方に追いやられている青い包装のアイスバーを手に取ると、また迷い無くレジへ向かっていった。
一言も会話をすることなくまゆの後をついてまわる陽菜は、付けた事を忘れられた携帯ストラップの様な気分だった。
置いていかれる様な焦りもあったが日中の玉こんにゃくの事もあったので、陽菜はミネラルウォーターを手に、追うようにレジへ向かった。
あの時こうしておけばよかった。そういった事は少なくしていった方がいいのだ。全てはシンプル。陽菜は瞬間の選択を躊躇しなかった。
幽霊の様な店員の声を背に店を出ると、まゆはアイスバーの包みを満杯のゴミ箱へ突っ込んでいる所だった。
「あの、まゆさんそのアイスって、、」
一見するとソーダバーの様な青い包装とは裏腹に、陽菜が見つめるまゆのアイスバーは黄色い色をしていた。
「陽菜ちゃん、知らない?もう市内じゃなかなか見つかんないんだよ。ダシ巻き玉子味」
いくら物事をシンプルに考えようとしても、陽菜はまゆのアイスバーをシンプルに理解することができなかった。
というかそもそもそんな味のアイスバーが世の中に存在していたことに驚いている方が先立っていた。
「なんかさぁ、ダシ巻き食べると日本人でよかったぁぁって思うんだよね。出汁の力っていうか、陽菜ちゃんも思わない?あ、てか一口どう?」
寿司に唸るグルメリポーターの様に体をよじってアイスに浸るまゆを、怪訝な顔で見つめながら陽菜はミネラルウォーターのキャップを捻った。
一度陽菜へ差し出した奇妙なアイスバーを、質問したことすら無かった事の様に瞬時に引っ込めると、まゆは踵を返し再び歩き出した。
まるでピン芸人のコントを見ている気分だった。まゆは時々自分だけで会話を全て完結させてしまう。黄色いアイスは幻の様に瞬く間に棒だけの姿になっていた。
ミネラルウォーターに口を付けた陽菜は訝しげにボトルラベルを見る。パイナップル味。失敗した。まるで水の様なそれは陽菜の求めた潤いを与えてはくれなかった。
ピラフみたいな炒飯、ダシ巻き玉子味のアイス。水に見えるジュース。世の中はおかしな事が多すぎる。
陽菜の頭の中でイメージされたゴリラは手に握っていた似合いのバナナを投げ捨て、こん棒の様なフランスパンをむしゃむしゃと食べだした。
難しく考える癖を改めようとしていたはずなのに、目の前を歩くまゆの様に陽菜はやっぱりシンプルにはなれないのだった。
パイナップル味の水を一口ぐっと飲んでから陽菜は置いてけぼりにならない様に先行くまゆの後を追った。
意外にもまゆの車はその場所から数十分のコインパーキングに駐車されていた。駅裏から少し開けた歩道に出ると明かりも増え、陽菜の不安はいつの間にか消えていた。
助手席の下に落ちた書類を集める内に、まゆの中で何かがキレたのか、大学の資料が入ったダンボールには拳ほどの穴が開けられ後部座席に放り投げられていた。
日中は断固として助手席を譲ろうとしなかった重厚な資料達も、雨に打たれたような哀愁を漂わせ、すっかり車内の闇に溶け込んでいた。譲られた助手席に陽菜は腰を下ろす。
「さ、帰ろう帰ろう。」
運転席についたまゆは、我慢していたようにいそいそと座席横に手を伸ばすと、くたびれた箱から煙草を一本取り出し、オイルライターの火をつけた。
鉛玉を何発も打ち込まれたように変形したそのライターは、まゆの指先に付けられたリングと呼応するように陽菜の目には同調して見えた。
先の細い体のまゆには不釣合いな程にどっしりとしたアクセサリー達は、セレブを守る色黒のボディーガードの様にまゆの存在を引き立てていた。
陽菜は煙草を口先で銜えてエンジンをかけたまゆを見つめ、絵画の様に完璧に調和されたその姿に一瞬息を呑んだ。女性が女性に恋をするような、そんな瞬間でもあった。
煙草の煙が陽菜の体を包む。まゆは香水の類を一切つけてはいなかったが、陽菜はそんなものは彼女には必要ないと確固として思うのだった。
グロロロと轟音を響かせ、まゆはハンドルをぐっと握ると熊のように巨大な車を動かした。振動で煙草の灰がダッシュボードの上に零れる。
車は大きな道路に出るとアーケードを横に流しながら進む。祭りの余韻を残した男女が小さな塊をつくって戯れる姿がいくつか見えた。
彼らはこれから仙台の飲み屋街に繰り出すのだろう。夜はまだまだ終わりそうにないなと陽菜は思う。
泥を弾いた様な汚れがついた窓から町並みを見ている陽菜に向けて、まゆが口を開いた。
「あ、そういえばさ、陽菜ちゃんはどんな高校生だったの?部活とかしてなさそう。本の牛みたいだし。」
広大な牧草地で切り株の椅子に腰をかけたジャージー牛が、蹄を顎に当てながら読書をしている姿を陽菜はイメージした。
「まゆさん、それは牛じゃなくて、虫ですよ。本の虫。わたし本は好きですけど、そこまでではないですね。」
「ふぅん、それで?」
幾度も失敗した原稿をゴミ箱へ投げるような乱暴な語調で、まゆは煙草の煙と一緒に言葉を吐いた。
「あの、まゆさんの言うとおりで、わたし部活はしてなかったです。読書部とかあれば入っていたかもしれなかったけど。」
街灯の続く駅前を過ぎると途端に灯りはぽつぽつと点在する形になる。蛍の様な光を横に眺めながら陽菜は続けた。
「クラスに丸子ちゃんって子が居て、爬虫類研究会っていう部活?、みたいなのに参加させられましたね。」
丸子ちゃんは陽菜の高校時代の同級生だ。時代に逆行する分厚い丸眼鏡をかけていたので皆からそう呼ばれていた。
本当の名前は全然マル子に近しいものではなかったらしいのだが、もうその名前を思い出すことはできない。
休み時間に国立図書館にでも置かれている様な古ぼけた爬虫類図鑑を眺めていた。ハカセなんてあだ名が付けば適切だったが誰もそこまで興味は無かった。
陽菜は彼女と特別親しい訳ではなかった。教室での席も入り口と窓際くらい離れており単純に接点が無かったのだ。
先生の話を聴きながら教室の入り口の席に座る丸子ちゃんを、陽菜は変な人だなと思っていた。だってメガネが分厚すぎる。
イグアナの肌の一部を微笑みながら数学のノートにスケッチをする彼女の姿を、陽菜はおぼろげに思い出していた。
「そこでわたし、三年、亀の世話したんです。ミドリガメの、信之介の。」
信之介。熱帯雨林をかきわけ、大地を踏みしめる。ラグビーボール程にまで成長した巨体は湿地の王者の様だ。
丸子ちゃんは仲の良い先生に口利きをして打診を重ねた後に、最低でも部員を二名とすることで研究会を立ち上げる条件を得ていた。
高校生の多感な時期に爬虫類に興味があるクラスメートは壊滅的で、丸子ちゃんは焦ってたのだと思う。
今日みたいな突飛な真夏日だった。野球部の練習風景を流し目に窓辺で読書をしていた陽菜の前に、丸子ちゃんは額に汗を浮かべ立っていた。
親にでも切ってもらっているのだろうか。丸子ちゃんのショートカットはいつも急峻なコンクリートの斜面の様だった。
丸子ちゃんは陽菜に汗でよれた部活の参加申込書を差し出した。陽菜は読んでいた小説の句読点を目安に読むことを止めて彼女を見た。
それは女子ならではの空間を読み取る力が働いた瞬間だったのかもしれない。会話は無かった。陽菜は丸子ちゃんが差し出したA4サイズの参加申込書に名前を書いていた。
乾燥したワカメが注がれた冷水にむくむくと膨れるように、丸子ちゃんの表情は徐々に笑顔へと変わり、小さくありがとう。と陽菜へ呟いた。
ほどなくして陽菜は理科室を借りる形で運営に漕ぎ付けた爬虫類研究会の部員として、丸子ちゃんと定期的に放課後を過ごす日々が始まった。
「亀の世話か、なんか、陽菜ちゃんぽいかも。ちょっとウケるね。」
体の一部をくすぐられているようにまゆは茶化した笑みを浮かべると、吸殻の溢れた灰皿へ煙草をグッと押し込んだ。
「でも、丸子ちゃん、すぐ居なくなっちゃったんです。両親が離婚したか何かで、一年で転校しちゃいました。」
露骨な清潔感を湛えた理科室の中で、好奇心と探究心の入り混じった強く細い声が響く。
分厚い丸メガネの丸子ちゃんは教室の中では知りえない様な笑顔を理科室では見せた。この人はこんな風に笑うんだと陽菜はいつも思った。
面倒ごとを押し付けられた様な新人教師が監督係として教室の開錠をしていたが、後は二人で。と言って鍵を渡すと二人を残していなくなるのがお決まりだった。
二人だけには広すぎる理科室の隅で、大統領の暗殺計画を練るように丸子ちゃんは近い距離で陽菜へ話しかけている。
「ミドリガメの別名はアカミミガメ。顔の横に赤い模様があるでしょ。だからアカミミっていうんだよ。かわいい」
アマゾンの湿地帯をミニチュア化した様な水槽の中、模型の山よりも少し大きいアカミミの信之介の甲羅を丸子ちゃんはツンツンとやった。
信之介は一瞬首を甲羅に引っ込めるが、おどかすんじゃねえと言う様に再び首をにゅーんと伸ばして丸子ちゃんと陽菜を見つめた。
パチパチと瞬きをしながらこちらを見つめる信之介を見て二人は向き合ってくすっと笑うのだった。それからの事は本当によく分からなかった。
朝から霧がかったジメジメした日に丸子ちゃんは学校から居なくなった。陽菜は担任の先生の発表を虚ろな表情で聴いていた。
丸子ちゃんが居なくなった理由はよく分からない。派手な格好の女子が何やら騒いでいるのを覚えている。担任の先生は陽菜のそばにくると励ますように顔を近づけた。
「露木。あのな、亀。あれなんとか持ち帰れないか。」
丸子ちゃんは本当に急に居なくなったと思えば、後は頼んだとでも言うように信之介を置いてけぼりにして行ってしまった。
その日、陽菜はお母さんに車で迎えに来てもらい一年でまた少し大きくなったミドリガメを自宅に持ち帰ることにした。
陽菜の母は父と違って楽観的な人だった。学校からの電話に出たのがお母さんでよかったと陽菜は今でもそれを思う。
それから信之介は露木家の新しい家族として庭の一部をフェンスで囲う形で飼育されることとなった。陽菜の父が気付いて怒り出したのはその後だった。
「うちのお母さん山形プロレスのファンで、その亀がレスラーに似てるとか言ってロドリゲスって呼んでたんですよ」
陽菜は自嘲するように笑うと実家のテレビの前で奇声をあげて応援する母の姿を思った。そういえばずっと電話していないな。
「そいつって亀のマスクでもかぶってんの?」
まゆは青信号に気付かない前の車に対し軽くクラクションを鳴らしながら言った。
熊に威嚇された登山家の様に前方の車は焦る様に発進した。
「カミツキガメだったと思います。ブラジルのレスラーが師匠みたいで。フルネームは、、ドラゴノバ・ロドリゲロジュニア。だったかな。」
親の影響というのは恐ろしく、陽菜は自分自身が全く興味の無いレスラーの名前をしっかり覚えていることがなんだか恥ずかしかった。
「なにその言いにくい名前。それそいつの本名なの?」
「うーんそれが本名かは分からないですけど彼日本人だった気がするんです。リングに立つと決まって俺は山形の大地が生んだモンスターだって叫ぶんですよ」
まゆはそれを聴くとフフッと笑ってから、取り出した新しい煙草に火をつけた。
「えーと、なんの話してたんだっけ」
陽菜はそれを聴いて、本当にそうだなと思い自然と笑みをこぼした。
まゆの車は街灯がほぼ無くなった闇の中に佇む駐車場の入り口を照らしていた。陽菜たちのアパートの周辺は物騒なほどに薄暗い。
「まゆさん、部活の話しですよ」
大きな岩でも転がっているように車体は不自然に揺れながら駐車場に入っていく。
なんでこんなことを話しているんだろうと陽菜は思った。自分の高校時代の話。丸子ちゃんどうしてるのかな。信之介、でかくなってるかな。
砂利を撒き散らしながら車を豪快に止めるとまゆは煙草を口に銜えて、とうちゃーくと言った。エンジンを切ると荒々しい車体は急に静になる。
忘れていた夜の湿った熱気が再び陽菜の体に伸し掛かる。二人は車を降りると近所の家から漏れる明かりを頼りにアパートへ向かった。
こんなに色々な事を感じる一日は久しぶりだった。長い夢でも見ているような陽菜は隣を歩くまゆを見つめ、現実を噛み締めていた。
「あー、帰ったらビールでものもっかなー、冷蔵庫にあったらいいけど」
まゆさんと陽菜は思う。竹を割ったようなシンプルな生き方。
「あ、つか、デビかえってくんじゃん。ご飯つくんなきゃだ。え、材料あったっけ。」
今日一日、連れ出してくれたこと、ありがとうございます。微笑みながら陽菜はまゆを見つめた。
まゆさん、と陽菜は声をかける。まゆはそれどころじゃないという感じでえ?と大きく答えた。
「あんまりにも大きくなる信之介が心配で後で調べて分かったんですけど、信之介、メスだったんです。」
世の中は本当にまぎらわしいものが多すぎる。実はずっと前から知っていたことなのかもしれない。
頭の中でロドリゲスとか信之介とか呼ばれてきたミドリガメに陽菜はそっとリボンをつけてやるのだった。


自費出版の経費などを考えています。