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言葉がでないという感覚。目の前の風景に陽菜は茫然としていた。
変色した立ち入り禁止の立て札が隆起した泥の上に突き刺されている。
変わり果てたコラフは朽ち果てたままで目の前に立っていた。
記憶の中で最後に観た時よりも何処となく小さく縮んでしまったように思う。
小さく深呼吸をすると燃えた木々の匂いが未だに漂ってくるようだった。
通りを歩く人々の中、陽菜以外立ち止まる人は誰もいない。この場所にこの風景は当たり前になっていた。
ここに来る道中、取り壊しが進んで真っ更になった跡地を頭の隅で考えていた。
白い砂利が敷かれ、お店が丸ごと飛んで行ったみたいに整然とした土地だけが残っている。そんな景色。
土地の事は詳しく分からないが、こんなみすぼらしいまま打ち捨てられたみたいな現状が辛かった。
改めてこの場所に来る事で、過去と今に折り合いがつけられる期待をしていた。久保さんに呼ばれた気がしたのもその吉兆だと思った。
だけど、現実はただ何も変わらない姿のまま、陽菜の前に付きつけられていた。
気が付くと店舗の石柱に手をあてていた。茶色いレンガは所々黒くなり、時間経過からぼろぼろしたものが指先にくっ付いた。
「寒いね。」
呟きながら陽菜は柱を撫でる。口にして慈しんであげなければいけない気がした。悲しいのは私だけじゃない。
「はやく、生まれ変われるように、願ってるからね。」
掌の中心から気持ちを送りこむように目を閉じて、陽菜は呟いた。心から祈るように。
クボさん、私はもう、過去を振り返らない。お店は消えて無くなっても思い出はちゃんと消えないで残ってる。
クボさん言ったよね。ルーツが大事だって。コラフでの毎日は、皆との日々は、今の私に確実につながってる。
少し前じゃ想像もできない事が、色々な出来事があった。バラバラみたいだけど全部繋がってて
それらは混ざり合って一つの渦みたいにぐるぐると私の中に流れてる。ぐるぐる。ぐるぐる。
カレーみたいだ。と、陽菜は思った。自分自身という空っぽの鍋の中に集まった様々な要素。
時間をかけて煮込まれ、香りと辛みのあるスパイスで調味され、焦げ付きながらも最後ひとつの大きな美味しさにまとまる。
今は少しだけ時間が必要なのかもしれない。店長も、タチバナくんも。そして、どこにいったか分からないクボさんにも。
私は、、今から前を向いて進もうと思う。燃えてしまった小説も、もう一度書きなおしたい。今は、それが私の出来る事。
でも。と陽菜は考える。冷たい風にのってどこかの家から美味しそうな香りが流れて来た。
今晩の夕食は絶対カレーだ。私にできることは、まずは美味しいカレーを作って、ちゃんと食べる事だ。
便利さにかまけて近頃はコンビニの廃棄弁当ばかり食べていた。面倒だけど時間をかけて作った陽菜特製のベジカレー。
たまらなくあの味が恋しくなってしまった。幸い、帰り道にはスーパーもある。あとは実行するだけだ。
レンガに寄せていた手を離し、改めて焼けたコラフを見上げてみる。強い風が吹いた。
もう行きなさいと言われている気がして、陽菜は軽く頭をさげるとお店に背を向けた。

と、振り向いた陽菜の前に誰かが立っていた。背の高さから突然目の前に壁が現れた気がして陽菜は思わず後ろにのけぞった。
「きゃっ」と倒れかけた陽菜の手が掴まれ、引き寄せられる。
瞬間の出来事にくらくらしながらもずれた帽子を直して向き直った陽菜の前には懐かしい顔があった。

ゴエモン、、さん?

男性は陽菜の手を離すと鋭い目で陽菜を睨みつけた。

私達はコラフがあった場所からさほど離れていないカフェに来ていた。
夕日が差し込む店内は午後のまどろみに満ちていて、カウンター席はカップルやお1人様で埋まっている。
「申し訳ありません。只今のお時間お二人様のお席は満席でして。」
従業員のおばさんに申し訳なさそうに案内された窓辺のテーブル席。
私達ふたりは向い合わせに広いソファに腰掛けた。
御注文お決まりでしたらお呼びください、とメニューを開き立ち去ろうとしたおばさんに向かって、ゴエモンさんは呼びとめる様にコーヒーを注文した。
開かれたメニューは目を通される事なく下げられてしまう。ほんの少しだけ見えた美味しそうなパフェの写真。その残像が卓上にぼんやり浮かんで見えた。
私は改めて目の前に座る初老の男性を見つめる。喫茶コラフでナポリタンばかり食べていた人。豪快だけど整然とした食べ方が脳裏に思い起こされる。
男性は腕を組んでいかめしい顔をしながら、窓の外を眺めている。目つきが鋭すぎるせいで私には睨みつけているみたいに見えた。
ゴエモンさん、とうっかり呼んでしまいそうになった私は、ついさっき正式に知った男性の名前を思い出す。
藤森ふじもりさん」
ゴエモンこと藤森幹雄ふじもりみきおさんは、呼びかけとほぼ同時にこちらへ向き直った。
私に呼ばれたから、ではなく自分の意思と然るべきタイミングで向き合ったという所作で。
藤森さんは私の顔をちらっと一度観てからすぐに視線をテーブルに落とした。
「あの店が無くなってしまったのは、本当に、本当に残念だ。」
噛み締めるようにゆっくりと藤森さんは言う。
「陽が傾き、郷愁に浸る様な時間が訪れると、おもむろに思いだしてしまう。」
いや、必然か。藤森さんは言葉の最後に訂正するように付け加えて言った。
最後にお店で話した時と同じ、重みのある話し方だ。単語ひとつにも意志が込められているような。
返す言葉を考えていると後ろの席から甲高い子供の笑い声が店内に響いた。
こら!うるさくしないの!と母親の更に甲高い声が覆いかぶさる。
「私も、同じ気持ちです…。今でもお店のことを思い出します…。だって、全部が、もう、突然過ぎて…」
もう帰るよという声が聴こえ、はーい、という子供達の元気のいい返事がした。
お待たせしました。ホットコーヒーお二つですね。こちら失礼します。
向き合ったままで言葉数の少ない私達を察してか、従業員のおばさんは必要な言葉とコーヒーを置くとすぐ席を離れていった。
「火事のあった日、私お店に忘れ物をしていたんです。結局持ち帰りそびれて燃えちゃったんですけど、次の日もバイトが入っていたから明日忘れずにいればいいかなんて考えて眠って…朝が来たらお店が無くなってました。ずっと変わらないと思ってたから、こんなにもあっさり消えちゃうんだって…。それが、その事が、すごく寂しくて、悲しくて。」
私の言葉を黙って聴きながら、藤森さんは時折共感する様にうなずいているように見えた。実際にはほとんど動いていないようだけどその時の私にはそう感じた。
テーブルを見つめていた視線はいつの間にか私をまっすぐに見つめている。
「警察の人には放火とか事件だとかで色々取り調べを受けたんですけど、真っ黒でボロボロになったお店を観た後だったから、ほとんど何を話したか覚えてません。暗い部屋の真ん中でうずくまってる様な気分でした。」
話しながら私は、コラフが無くなってから今日までの気持ちを、ずっと誰かに打ち明けたかったんだなと感じていた。
友達でも家族でもない、ほとんど初対面に近いような男性に対し、こんなにも素直に胸の内を話せている自分がいたからだ。
「露木さん、だったね。」
コーヒーを一口飲んだ藤森さんが言う。
「あなたにとってのお店。その大切さ。全てとは言わないが、私にも共感できるよ。」
藤森さんがふっと口元に笑みを浮かべる。この人、笑うんだ。とちょっと私はびっくりする。
「…ありがとうございます。」
なんだかとても貴重な表情を観れた気がして、コーヒーに口をつけながら思わず私も笑みを返していた。

それから、私達はコラフが無くなってから今日に至るまでの色々な事を話した。
私が今は近所のコンビニで働いている事。店長や久保さん、タチバナくんは皆それぞれに別の生活を始めている事。
私の書いていた小説が、地元の新聞に載るかもしれなかった話もした。
お互いに言葉がぶつからないような話し方をしていた所為で、気が付くと窓のそとはすっかり暗くなっていた。
隣のテーブルに腰掛けたカップルがほうれん草のキッシュを頼む声が聴こえて、私のお腹が鳴ったのが合図になった。
本当に恥ずかしいけど、私はお腹が空くとどうしても他の事が考えられなくなってしまう。
藤森さんは、私のそうした小さな変化に気付いてくれたのか、それとも自分もお腹がすいたのか何も言わずに従業員を呼んだ。
店内を観るとこの数時間の内にずいぶん静かになっていて、カウンター席もまばらだ。
少しだけ余裕の感じられる歩き方をしながら従業員のおばさんが席にやってきた。
ご注文はお決まりですか、と言いかけたおばさんの言葉尻を切る様に藤森さんは訊ねる。
「失礼。この店には、ナポリタンは、おいているかな?」
おばさんは少しだけ驚いた様な顔をしてから表情を戻すと、申し訳ありませんが当店では提供しておりませんと丁寧に詫びた。
返事を聴いた藤森さんはちょっと口元に手をやって考える顔をしてから、隣の席のカップルが頼んだほうれん草のキッシュを注文した。
かしこまりました。本日のキッシュがおふたつ…少々お待ち下さいませ。と立ち去ろうとしたおばさんが突然あっと声をあげた。
「あらやだ、お客様!申し訳ありません!わたしったらメニューをお持ちするの忘れてましたね!大変失礼しました…」
言ってから、伺う様な素ぶりで顔を向けられた藤森さんは、注文は以上。メニューは不要。と鷹揚な態度でおばさんに返した。
コラフにお客さんとして来ていた頃から不思議な人だと思っていたけど、よその店でも癖のある風格はそのままみたいだ。
またちょっと眉間に皺が寄った藤森さんの顔を眺める。ふと、テーブルの端に追いやられたコーヒーカップに目が向いた。
湯気が立っていたカップはすっかり落ちついてる。注がれていたコーヒーが全然減っていない事に気付いたのはその時だった。


☆☆

自費出版の経費などを考えています。