見出し画像

22

しん、と静まった月の無い夜。雪は降り続いていた。
東北大学の校舎の窓には、点字みたいにぽつぽつと疎らに灯りが点っている。
長い旅を終えた人間が古巣に戻るときに見る家の灯りには、必ずいつでも迎え入れてくれるような穏やかな温もりが窓の明かりからなんとなく感じられるが、大学の窓達にはそうした温もりの様なものは感じられず、きっとその明かりの点いた部屋の中では何かしらのやらなければならないことに追われている講師や学生が居るからなのだろう。
顔に吹き付ける冷気と澄んだ闇のせいだろうか、じっと夜に佇む校舎を眺めていると果たしてその中に人が居るのか懐疑的な気持ちになる。普段から見慣れた建物を何処か記号的なものに見せてくる。
中崎は雪の降り積もる構内の庭でそうした事を考えながら、目線の先、誰かしらが残っていた部屋の明かりが一つ消えた事に安堵した。瞬間的に漏れた息は先ほどよりも白さを増しているように見える。
明かりが一つ消えただけで途端に暗がりが一層深淵とした物に感じられて、中崎は寒さも相まって大きく身震いをする。雪は明日の朝まで降るのだろうか。目線だけで空を見上げてから中崎は口に咥えていた煙草をポケットの携帯灰皿に押し込んだ。
「あー、だる。」
中崎のすぐ後ろから膨れっ面でスコップを引きずってきたのは小峰まゆだ。
履いているレザーのロングブーツはヒールがかなり高くなっていて、隣に立つ背の低い中崎の身長をより一層際立たせている。
一体何羽の鳥を犠牲にしたのか分からない派手なボアが付いたパンパンのダウンジャケットと、細い足にぴったり張り付いたタイトデニムのせいで文字通り逆三角形の様なシルエットのまゆは温かそうにも寒そうにも見える服装だった。
ハリウッドセレブが木の実しか取れないような深山にぽーんと放り込まれた様な歪さがある。いつだってまゆは世界から切り取られた枠の中に生きているのだ。
中崎の隣に立った長身の女性は遠慮の無い大きなくしゃみをした。
「なかちー、これ、マジでやんの。寒い。」
視線を遠くへ向けたまま放ったその言葉は、まゆの口から真下の雪の上に重石の様に零れ落ちた。まゆは手にしていたスコップを体の前に立てる。中崎は手袋をした片手を顔の前に持って行きながら賢人の様な咳払いをする。
「小峰、お前の単位が足りないからこっちは相談にのってやったんだぞ。少しは付き合え。交際しているデビ君の事も確かに大事なのは分かるがお前も学生だっていう事を忘れてはいかん。そういうのを本末転倒というんだ。」
中崎はポケットから泥の付いた軍手を取り出してまゆに渡す。
「わーかったってば。」
まゆはそういうと体の前に突き立てていたスコップを引き抜くと目の前の雪の固まりに歩み寄った。中崎の差し出した軍手は受け取ろうとしなかった。
老体に鞭を打つように両手を体の前で勢いをつけて交差させる動きをしてから中崎は壁に立てかけておいたスコップを握る。
「ここは、誰も雪かきをしないからなあ。」
雪に向けて勢いよく差し込まれたスコップの音が響く。
「当たり前っしょ。多分ここ、うちらしか知らないんだし。」
親子程に年の離れた二人の男女は、白い息を漏らしながら目の前の積もった雪に意識を集中させた。

中崎とまゆが立っているのは時々二人で煙草を吸う場所だった。たぶん長い間このキャンパスに居なければ、否、探そうとしなければと言った方が正しいかもしれない。きっと誰も知らないだろう秘密の喫煙スペースが校舎の裏に、こじんまりとあった。その場所は何故か土の質感が他と違って柔らかく、立ったままでも不思議とくたびれなかった。
大人二人がぎりぎり座れる程のミニチュアみたいなベンチ。
コの字形にくぼんだその空間は隠れてこっそり煙草を吸うには最適で、ベンチや土、整い過ぎた環境は、にわかには信じ難いが果たして喫煙の為に設けられた窪みの様だった。(設計士の中に悪戯好きな人間が混じっていたと中崎は踏んでいる)
まゆはこの場所を、自分だけの場所だと入学当初は思っていた。周りに馴染めずに一匹狼だった彼女は退屈な講義をサボるとよくこの場所で煙草を吸っていた。
小さなベンチに腰掛けると目の前の鉄柵越しには昼間の道路が見え、沿道を歩く様々な服装をした人々は何処か別世界の出来事みたいに目の前を通り過ぎていった。
夏場、このスペースは日陰になっていて気持ちがよく優しい風が流れてきていた。
まゆはキャンパスを囲う様に植えられた木々の緑や走り去る車を眺めながら煙草を手にただひたすらにゆっくり過ぎる時間を感じていた。
それが彼女の当時の全てだった。
中崎とまゆはその場所で偶然はち合わせた。秋の頃だった。
キャンパス内で散々馬鹿にされた下駄を履き、カーキ色のオーバーサイズなジャケットを着た中崎は白髪まじりの頭をかきながらその場所へやってきた。
まゆは、いつも通りに目の前の光景をただ眺めながら、呼吸する様な無意識の所作で煙草をただ作業的に吸っていた。声をかけたのは中崎だった。

「ここ。本当にうちらしか使ってなかったのかな。」
まゆはスコップで集めた雪を投げながら言った。ろくにすくえていない微量の雪はまゆの目の前で砂の様に散った。
「さあな。わからんが俺はいつも小峰がいる所しか見なかったな。」
雪の季節の度に中崎は一人雪かきをしていたのだろう。慣れた動きで言葉を返しながら雪を掬う中崎の目の前はもうすっかり土肌が見えかけていた。
さして広くは無い場所だが中崎は既に額にうっすらと汗をにじませ時折洟をすすりながら休まずにスコップを動かし続けている。
数分の作業で既に疲れがピークを迎えたまゆは、再びスコップを目の前に突き立てると濁った溜息を吐いた。中崎は変わらず目の前に集中している。

「ね、なかちー。」

背後から放たれた言葉に対し、中崎は返事なのか勢いで漏れた声なのか判別できない音を鳴らした。スコップの腹に乗った大きな雪が投げた先の地面に音を立てて落ちる。
「うちさ、ここダメだったら辞めてネパール行こうかと思ってる。」

「んぁ、ンパールゥ?」
スコップを差し込んだ箇所が悪かったのだろう。分厚く積もって持ち上がらない雪に力を込めた中崎は言った。

「そう。ネパール。」
まゆは、険しい形相でスコップを握る中崎に向かって淡々と言った。

「ネパールって。ネパールって、デビくんと一緒にか?」
中崎は雪に刺さったままのスコップから諦めて手を離す。洟をすすった中崎はまゆに向けて息を切らしながら言った。

ダウンジャケットから煙草を取り出し、まゆはフラスクの様なライターで火をつける。寒さのせいでか細い両手の指先は少し赤らんでいるようだった。
「ううん。デビは別。うち一人。」
浅く煙を吐きながらまゆは中崎の顔を見つめた。

「将来社長になるんだし。一回くらい海外行っておかないとね。」

中崎は露骨に呆れた顔をしてまゆを見つめ返した。

「小峰、お前のご両親はなんて言ってんだ。相談とかしたのか。」

まゆの事だ。そんな事微塵も考えてないだろうし誰がなんと言おうと自分のやりたいことを実行するだろう。中崎は無意味な質問をしたことを自分で即座に解釈した。
両手を組み煙草の煙をくゆらせ、いつもこの場所でまどろむ時と同じ顔をしながらまゆは遠くを見つめていた。やはり、中崎の言葉には反応しない。
空から絶え間なく降っていた雪はいつの間にかその勢いを落としていた。

「なんでもいいが、まずはちゃんと目の前の事を片付けなきゃな。卒業が今のお前の目的地なんだから。駄目かどうかは頑張ってみないと分からんだろ。」
まゆは両手をポケットに入れたまま黙って煙草をくわえている。
煙草の先から狼煙の様に白い煙が細く立ち上っていた。
中崎は、まゆの周りに既に同期で入学した学生が一人もいないことを知っていた。そして、学問や知識として文化の研究をしていたまゆの興味は、もう二段黒板の文字の中や机上に存在しないという事も同時に気付いていた。長い時間をかけて海から陸にあがった生物の様に、彼女もまた今いる環境から別の場所へと移り住むべきなのだろう。この場所にいるべきではない。今のこの子にはもっと自分らしく生きれる場所が他にある。中崎は、この場所でまゆが遠い目をしながら煙草を吸う姿を見るたびにその事を繰り返し感じていた。
紅く染まった木々たちの下、この場所で初めてまゆと会った時、彼女はその目線の先に何を思い描いていたのだろう。中崎は奔放なまゆの行動その全てが誤りであるというよりは何かを不器用に懸命に探し続けている姿の様に見て取れた。この場所で彼女と小さな会話をする度徐々にそれは確信に変わった。だから中崎も立場上まゆに何かしらを言うことはあっても、それ以外は彼女の事を否定する言葉を使う事をしなかった。それは自分のするべきことではないと思ったし彼女にとってそうした言葉達は無意味に思われたからだ。
自分自身で物事を篩いにかけることができる人間。そんな人に対して余計な言葉をかけること程の節介は無い。
中崎の視線の先、まゆはポケットから突っ込んでいた両手を出し煙草を手に取ると足元の雪に押し付けた。細い指につままれた茶色い塊を持って近づいてきたまゆは中崎に干からびたミミズの様な吸殻を渡した。中崎は何も言わずに受け取ると自分の携帯灰皿にそれを押し込めた。
「小峰、いいか。まだ諦めるなよ。この場所を選んだお前自身の為にも。」
中崎は頭一つ分背の高いまゆを見上げる形で低い声で言った。それは中崎自身が芯のある彼女に対して発言できるぎりぎりの言葉だった。
彼女が何をどう考えてこの大学に入ったのかは知らない。知る必要もないだろう。しかしいずれにしても彼女自身が選択をし、選んでこの場所に来たのだとしたら。さじを投げるのはその選択を自ら否定する様なものだ。この大学を卒業することが全てではない。辞めるのも自由だ。だが、自分のこれからの進路を話したまゆに対し中崎はそれに応えうる言葉、行動、彼女に対して自分ができるベスト(それは非常勤の講師であっても)を尽くす事が中崎自身の為でもあると感じていた。小説で世界を構築している陽菜を応援したい気持ちと同じように、中崎はまゆに対してもそうした自分の気持ちに素直でありたいと思っているのだった。頑張れよ小峰。中崎は表情に力を入れた。
「腹減った。ラーメン食べにいこ。」
まゆは中崎の言葉に一瞬真面目な顔をしたものの、すぐに気だるそうな顔をして彼の前を横切っていった。
「おい、小峰、スコップ」
中崎は振り向いて叫んだ。まゆはどんどんと先へ進んでいってしまう。
「美味しい店知ってるからぁ。近くに車、持ってくる。」
まゆはそう言うとまた大きなくしゃみをして小走りに立ち去った。
小峰は本当に不思議なやつだ。実家住まいで家族の車ならまだしもあいつは確か一人暮らしだ。大学生で自分の車を乗り回してるなんてあまり聴いた事がない。アルバイトでもしているのだろうか。何かを手に入れたい彼女の何振り構わない性格が危ない方向を向いていないか中崎は心配になる。
考えてもみればこうしてまゆが大学に来たのも会話をしたのも久々の事だ。今夜はあいつの話をもう少し聴いてやるか。中崎は自分のスコップとまゆが突きたてたスコップを引き抜いて両手に持つと大学の用具倉庫へ向かって歩き出した。


■同日、まゆが大きなくしゃみをした時間。

タチバナくんは焦燥した顔で雪の降る支那そば屋の店先に立っていた。
国分町の通りは今夜も賑わっていてあちこちで男性のかけ声や女性の黄色い声が響いている。雪が降り始めた所為かタクシーも断続的に目の前の道路を流していた。
数分前、支那そば屋でクボとりさと共に食事をしていたタチバナくんだったが、彼がトイレに立った間に二人が店から居なくなっていたのだ。幸い勘定は済まされていて(タチバナくんはあろうことか財布を持ってきていなかった)カウンターで作業をしていた男性に丁寧な説明を受けて店を飛び出たものの、二人の姿は見えない。粉雪をまとった冷たい風が容赦なく吹きつけ、タチバナくんは慌てて羽織ってきたダウンのジッパーを上まで引き上げた。
「クボさん達どこいったんだろ。」
沿道を回し観るタチバナくんの前に、細身のダウンコートを着た二人の背の高い男性が近づいてきた。
二人は体型の違いを除けばまるで鏡写しの様に同じ髪型と服装をしていた。
「お兄さん。次、どうすか、どうすか」
男達はそう言いながら誘い言葉の節々に何かしら小さな単語を挟みながら囁いてくる。暗号の様な言葉達は無機的な連弾となってタチバナくんの顔に張り付いた。
タチバナくんは苦笑する。一人でこのエリアに出来れば居たくないのに二人は何処に消えたんだろう。目の前の男達の声に悪意は感じ取れないが今はそれどころではない。
真顔なのか微笑んでるのか分からない中性的な表情の彼らを前に、タチバナくんは投げかけられる言葉の意味がよく理解できず口ごもっていると男達の背後で突然大きな音が鳴った。
タクシーのクラクションだ。そばを歩いていた女性グループが振り向く。男達も体を向けた。
直後、ドライバーの男性とおぼしき怒声が雪の降る国分町の道路にこだました。本来の警笛の役目は意味合いが変わり、威嚇の様に鳴るクラクションは怒号と混じって繰り返し鳴らされている。
背後の出来事に気を取られた目の前の男性ふたりをタチバナくんは避けると、音の方向へ首を伸ばす。国分町の入り口ゲート付近。タクシーの前を横切りながら髪の長い女性が物凄い勢いで走っている。龍の様な刺繍のジャケットには見覚えがあった。
「え、、クボさん?」
長い髪を振り乱しながらクボと思わしき女性は歩道も車道も一緒くたとばかりに走っている。
タチバナくんが目をこらして声を出した瞬間、傍らで息の荒い声が響く。隣に目をやるとギターケースを抱えたりさだった。タチバナくんの片手にぐっとしがみつき、絶え絶えに白い息を漏らしている。雪の付いた髪の毛は乱れて方々に散っていて、焦燥した彼女の姿は明らかに様子がおかしかった。
「あ、りささん、あの、あれ、クボさんが。。一体どうしたんすか。」
タチバナくんは状況がつかめない。手探りの言葉が口をついて出た。息を切らしタチバナくんに駆け寄ったりさに何かを感じたのだろう。先程まで熱心に話しかけていた男達は音もなくどこかに消えていた。
「わたしも、、わかんない、、クボさん突然走り出して。。でも、、なんか誰かを追いかけてるみたい。ヤバそうな奴。君、追いかけた方がいい、、」
りさはそう言うと背負っていたギターケースを雪の積もる歩道にゆっくりと降ろした。文字通り肩の荷が降りたりさは、両手を膝に置いて溜め息をつく。
察するにりさはクボの後を一度は追いかけたものの、途中でそば屋の前まで引き返してきたのだろう。
こいつが重くて追うのは無理。と、言わんばかりに傍らに降ろしたギターケースの頭を叩いてりさは顔をしかめた。よほどスピードを出して走ってきたのだろう。りさはダウンジャケットの前を開けたまま小さな肩を上下に揺らしている。
詳しい経緯を聴きたい気持ちがあったが、目の前の差し迫った様な状況にタチバナくんは野球部時代の求心力を掻き立てられ、黙って雪道を駆け出した。クボさんのことだ。夏のあの日、道に迷った青い眼の青年を助けたみたいに、何か見逃せない出来事がきっと目の前で起きたんだろう。
ただ、気になる事は、自分の腕にしがみつき息を切らしていたりさの表情。経緯こそ見えないが誰かを必死に追いかけている状況はタチバナくんの想像をよからぬ方に掻き立てた。クボさんの走るスピードを考えれば追っている相手も同等かそれ以上のスピードで走っている事になる。そうでなければ追い付かない事が不自然だ。この状況で納得のいく理由なんて悪い奴を追いかけているなんてのが無難だ。というかそれしか思い浮かばない。
悪い予想は連鎖的に広がる。タチバナくんの頭には先程の支那そば屋のテレビで観たカマキリ男の不適な顔が浮かんだ。最近市内で増えている事件。暴力団。。もしも、もしもだけど、あんなヤバいタイプの奴をクボさんが追いかけてるとしたら。。いくら宇宙人なクボさんだって勝てるわけない。しかし、クボという女性は相手に勝てないから見過ごしたりするような人間ではない事もタチバナくんは同時に分かっていた。
まったく、クボさんって。。走りながらタチバナくんは濡れた前髪をかきあげた。降りしきる雪が冷たい風に乗って目に入り前がよく見えない。
道の向こうで小さくなるクボの姿を見失わないよう必死に駆けながら、絶え間なく顔に纏わり付いてくる粉雪を指先で払う。球場の様にキチンと整えられた砂とは違い足元を不安定にさせる雪が前に進もうとするタチバナくんのスピードを阻んだ。ほとんど騒音に混じるような形で何度かすれ違い様に客引きの人間の声が耳元を擦った。真っ白な視界の先、目の前に交差点が見え信号が赤に変わる。クボは丁度その手前だった。良かった。追い付ける。タチバナくんが安堵から速度を緩めようとした時、あろうことかクボは速度を維持したまま道路に飛び出していった。発進しようとした車達の急ブレーキとクラクションの音が視線の先で鳴り響く。
「おい、マジか。嘘だろ。」
タチバナくんは目の前の喧騒に一瞬気をとられはしたが落ち着いて前をよく見てみると、クボが走っている前方数メートル先に人影が見えた。男性か女性かは分からないがやはり誰かを追っているんだ。
「信号待ってたら追いてかれちゃうよ」
タチバナくんはうわ言の様に言葉を漏らしながら付近を見回した。
白く染まった定禅寺通りの木々、寒そうに肩を寄せ合う人の波。
と、視界の数メートル先に歩道橋が見えた。目をこらして橋の経路を辿ると車道を挟んだ向かいの道路に繋がっている。走ればクボ達にはなんとか追い付けそうだ。ほとんど反射的にタチバナくんは再び走り出す。買ったばかりのスニーカーが歩道の雪を勢いよく蹴り上げた。





自費出版の経費などを考えています。